第14話 告白


 手を引かれて、連れ出されたのは、先ほどの花見会場とはまた違った、小ぶりの枝垂れ桜が一本佇んでいる静かな場所だった。

「裏庭以外にもいいところがあるだろう」

 喧噪は遥か遠くから聞こえる。ここは、獅子王と七音、二人しかいない世界。

 ペンキがはがれかかったベンチに腰を下ろした獅子王は、自分の隣をトントンと軽く叩いた。「ここに座れ」と言っているのだろう。

 七音は小さく頷くと、獅子王の隣に腰を下ろした。彼が見上げている枝垂れ桜は、妙に色鮮やかで、青い空とのコントラストは見事としか言いようがない景色だった。

 ぼんやりとその光景に見入っていると、ふと獅子王が七音の頭を撫でた。彼は、なぜ七音が泣いているのかを問うことはない。ただ黙って七音の隣に座っていてくれるだけだった。

 どれくらいそうしていたのだろうか。七音の涙はいつのまにか乾き、そして苦しい気持ちが、涙と共に流れていってしまったようだ。

「す、す、すみ、ま、せんでした」

 七音の口から言葉が飛び出した。自分自身の気持ちを昇華しようとする作業をしながらも、ずっとこうして付き添ってくれている獅子王への申し訳ない気持ちがあふれ出たのだ。

 すると獅子王は「構わない」と言った。それから優しい瞳で七音の顔を覗き込んだ。

「涙は悪いことではない。ただ、心配になる。嫌なことがあったか。比佐に意地悪でもされたか。あいつはすぐに人を揶揄う」

 七音は首を横に振った。それから初めて、家族以外の人間に比佐とのことを語った。言葉は詰まり、うまく説明できていないというのに。獅子王はただ黙って七音の話を聞いてくれていた。

「そうか。お前はそれで梅沢高校に入ってきたのか。比佐に『ありがとう』を言うために」

 七音は耳まで熱くなった。「笑われる」と思った。「そんなことで?」と。けれど、獅子王は優しい笑みを見せた。

「本当にお前という奴は。やはりおれの見込んだ男だ」

(笑わない?)

 何度も瞬きをして獅子王を見上げると、彼は「そっか」と息を吐いてから、少し遠い目をした。

「お前は……、比佐康郎という男に恋をしていたのだな」

「こ、こ、恋……で、ですか?」

「そうだ。お前は、康郎の優しさに触れ、そしてあいつに気持ちを寄せた。ただ感謝の言葉を述べるだけでは事足りなかった。そういうことだろう? もし『ありがとう』を言うためだけなら、あいつがお前を忘れていたとしても、お前の願いは叶うはずだ。けれど、お前は違った。あいつがお前を忘れてしまっていたことにショックを受けた」

(それって……)

「お前は、あいつに自分を認知して欲しかった。違うか?」

 獅子王の指摘に、七音は「そうかも知れない」と納得した。比佐が。自分を覚えていないと言われた瞬間。心が苦しくなった。自分はなにを求めていたのか、途端にわからなくなった。けれど、今ならわかる。一方通行のやり取りを望んでいたのではなかったということ。

「許してやってくれ。康郎に悪気はない」

(わかっています。これは僕の独りよがりの思いが起こしたことで……。そっか。失恋。失恋ってこと。それで涙が……)

 視線を地面に落とし、じっとしていると、ふと肩を引き寄せられた。驚いて顔を上げると、七音は、初めて獅子王と出会った日のように、彼にぎゅっと抱きしめられていたのだった。

 驚いて視線を戻すと、獅子王は「あの日——」と続けた。

「おれは部長として、どうしても『七の女王』が欲しかった。その一心で一晩中、お前の座る席にいた。どんな奴が来るのかって、色々と想像して。緊張で眠気など一つも起きなかった」

 七音の耳元に寄せられた獅子王の唇からは、心地よい声が響いてくる。七音は思わず瞼を閉じ、そして彼の言葉に聞き入った。

「とにかく、この席に来た奴を合唱部に勧誘するぞって息巻いていたはずなのに。お前を見た瞬間。おれは、そんなこともすっかり忘れて、お前を抱き上げてしまった」

 彼は「おかしいだろう?」と笑った。

「おれが気に入ったのは、お前のその目だ。どこか弱弱しく見えて、それでいて、なにかを秘めている目をしていた。もしかしたら、それが康郎への思いだったのかも知れないと思うと、かなり妬ける」

(妬ける? え? ど、どういうこと?)

「あ、あ、あの。せ、先輩……」

 七音は獅子王の肩に手を当てる。こうも密着していると、獅子王の表情が見えない。彼は一体、どういう意味で言っているのだろうか、と思ったのだ。七音の気持ちを察したのか。獅子王の拘束が緩む。

「先輩……——」

 ほっとしたのも束の間だった。からだが離れたかと思うと、今度は顎を取られ、そして獅子王の唇が、七音の頬にくっついた。七音は、起きたことを理解するのに時間を要する。かなりの間の後、獅子王に口づけをされた、という事実を認識し、「あわわ!」と悲鳴を上げて、からだをのけ反らせた。

 しかし、それは許されぬこと。腰に回された獅子王の腕はしっかりと七音を捕らえ、まるで磔にでもされてしまったように、からだはピクリとも動かなかったのだ。

「康郎が好きか」

「す、す、好きかどうかは、わ、わからなくて」

「おれはどうだ」

(ええ! ちょ、ちょっと待って。僕……)

 漆黒のまっすぐな瞳は七音だけを見つめている。七音は視線を外すことができなかった。獅子王の熱は、七音のからだを焼け尽くしてしまいそうなほどに熱い。

「あ……」

 出したくもない吐息が唇から洩れ出る。保健室で見た、獅子王のたくましい背中を思い出すだけで、からだの奥が疼いた。

(なんなだか変。変な感じがするのは、なに?)

 獅子王の唇が、七音に近づく。

「だ、駄目……」

 彼の頬に指を添え、それを止めようとするも、それは本位ではないのかも知れない。強い拒否の気持ちなど一つも湧き上がってこない。彼の頬の熱を指先で感じると、余計に心臓が高鳴る。言葉では拒否しているというのに、からだや心は獅子王を求めるのか。

 比佐とのことなど、どこかに消えてしまいそうだった。

「失恋したばかりのお前に、こんなことを言うのはフェアじゃないかも知れない。けれど、あいつのことは忘れろ。おれはお前を泣かせたりしない。七の女王に降りかかる不運だって、おれが全てこの身で受け止める。絶対にお前を守ってみせるから。七音——。どうか、おれを受け入れてくれ」

(獅子王、先輩……)

 七音は目を閉じた。それは獅子王にとったら、肯定の意味に受け取れるということを知りながらも、そうしたのだった。獅子王は優しく七音を抱きしめてくれる。

(この熱。僕は。この熱が欲しいって思ってしまう。これって、好き? 僕は、比佐先輩ではなくて、獅子王先輩が好きなの?)

 そっと獅子王の背中に腕を回すと、抱擁は更にきつく、固いものに変わる。

(ずっとわかっていた。わかっていて、気がつかないふりをしていた。あの日。教室で、初めて出会った時から)

 ——先輩は、僕のことを「好きだ」って。その瞳が。そう言っていたってこと……。

「僕、なんかで、い、いいんです、か?」

「いい。お前だからいいんだ。そばにいてくれ。おれにはお前が必要だ」

「せ、先、輩……」

 ——僕が僕ではなくなってしまうような気がする。

 出会ってから間もないというのに。七音はすっかり獅子王を信頼し、そして心寄せていた。その彼が自分を好いているというのだ。七音の心は震えていた。

(僕は……嬉しいの? 先輩とこうしているのが嬉しいんだ……)

 七音は勇気を振り絞って言った。「僕も——貴方のそばにいたい」と。こんなことを言ったらおかしく思われるかも知れないのに。伝えたいと思ったのだ。

 獅子王は笑った。彼の笑みは眩しい。七音の目尻から涙が零れた。

(嬉しい涙。これが。嬉しい涙——)

 獅子王の熱を全身で感じながら、七音は初めての感情に溺れていた。




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