第24話 氷の女王の密会


 本番はあっという間にやってきた。客席は、ほぼ満席。家族連れや、女子高校生たちの姿が目立った。

 第一ステージは外国語ステージと題されている。課題曲の作曲家であるビクトリアの作品や、ハンガリー出身の作曲家、バルトークの曲を扱う。

 優たちは、バルトークのマジャル語にかなり苦労していた様子だったが、言葉も全て音で覚えてしまう七音にとったら特に問題はなかった。

(お客さんが入ると、響きが変わるんだ)

 スポットライトを浴び、燕尾服を纏い、堂々と指揮を振る北部はいつもの彼ではなかった。

 トマス・ルイス・デ・ビクトリア。ルネサンスを代表するスペインの作曲家。今年の課題曲は、彼の二十代の頃の声楽曲モテットだ。彼は単純な技法を好んだ一方、多種多様なリズムや和音を駆使し、ドラマチックに曲を展開する作曲家だった。

 今回の曲も、前半の厳かな雰囲気とは違い、後半は歓喜に満ち満ちた心の叫びが表現されている。

 それに引き換え、バルトーク・ベーラは印象派。民族音楽の研究家としても知られ、自分で歌詞をつけるということまでやって退ける作曲家だ。

 彼の人生は波乱に満ち、国への熱い思いを抱えながら、異国であるアメリカで生涯を終えるという悲運の持ち主でもある。

 北部が選曲したこのリスト。「先生の大好物のオンパレードだ」と獅子王が言っていた。北部はなぜバルトークが好きなのだろうか。不可思議な和音と、変拍子。七音は、どうにもこの作曲家が好きになれないが、どこか北部の印象と重なるような気がして、それが彼の心を大きく動かす理由なのかもしれない、と思った。

 第一ステージが終了すると、さっそく休憩が取られる。第二ステージの準備があるからだ。客席では、次に始まるミュージカルを待ちわびる観客たちの熱気が伝わってくるようだ。

 ステージ裏は、まるで戦争のように大騒ぎになっていた。一年生たちはメイド服へのチェンジ。二年生はメイド服組と、裏方組に分かれる。裏方組は、演劇部長の鎌田の指示の元、演劇部員と協力をして、ステージ上に、大道具の設置を行っていた。

 七音たちが衣装に着替えてから、ステージ袖に足を運ぶと、そこにはメインキャストである三年生たちの姿があった。手伝いに来ていた、管弦楽部員、演劇部員から歓声が上がった。

 メイド服とは違い、華やかな衣装も多い。鎌田が演劇部の所有物を貸してくれたそうだ。入部式の時は、ずいぶんと迷惑をかけてくれた彼だが。後で聞いてみたところ、梅沢高校演劇部は、県大会を通過するほどの好成績を残している実力部だそうだ。

(甲冑とか。貴族みたいな服装をしていた先輩からは想像もできないけれど)

 その演劇部が全面的に協力してくれているのだ。失敗するはずがない。七音はメインキャストたちの中、獅子王の姿を探した。

(先輩は、どこだろう?)

 メインキャストの衣装を見るのは今日が初めてだった。視線を巡らせると、そこに獅子王がいた。

 今年の演目は「親指姫」。獅子王は親指姫を誘拐するヒキガエルの王子役だと聞いていたが。

 彼はフリルのついた生成り色のシャツに海老茶色のベスト。腰には桃色の布を巻き、ベストと同じパンツスタイルだ。足元には黒いロングブーツ。まるで映画に登場する西洋のキャラクターだ。

(か、かっこいい……)

 七音は思わず優のスカートを引っ張る。

「きゃ! なにするんだよ。七音」

「だ、だって。あ、あれ」

「ああ。獅子王先輩、かっこいいよね!」

「うん……」

 獅子王は七音を見つけるとにっこりと笑みを見せた。その笑顔は眩しいくらいに輝いていた。七音は耳まで熱くなる。

(もし、僕が親指姫で、先輩がヒキガエルなら。僕。ずっとヒキガエルのところにいたいな)

 七音は一人で妄想をして、恥ずかしくなった。その恥ずかしさをなんとか紛らわそうと、周囲に視線をやったその時。ふと主役である歌川の姿がないことに気がついた。

 すらりとした容姿の彼が親指姫。きっと美しいに違いないと、楽しみにしていたのだが。七音は辺りの様子を伺ったが、誰一人として、彼がいないことを口にするものはいない。

 場を仕切る有馬は、親指姫を救う燕役。燕尾服を纏った彼は、歌川のことなど気にも留めない様子で、鎌田と打ち合わせをしていた。

 二人の様子をじっと見つめていると、ふと鎌田と視線が合った。彼は、はっと弾かれたように飛び跳ねると、七音の元に駆け寄ってきた。

「うーん。やっっぱりね! おれの見立ては間違っていなかった! 七の女王は美しい!」

「い、いや。その——」

「どうだい? 今度の大会。ゲストで出演しないか。女王だからではない。君が欲しい!」

 鎌田にしつこく言い寄られて、ほとほと困った七音は、「用事を思い出しました」と口走ってから、慌てて廊下に飛び出した。

 廊下で一人になった七音は、ほっと胸を撫でおろした。

 舞台袖の部員たちの声が遠くに聞こえた。 

(歌川先輩はどこに行ったんだろう。開演まで後十分——)

 七音は歌川のことが妙に気になった。そのまま、そろそろと施設に備えられている練習室が並ぶ廊下を歩いていく。

(ここから先は先生の控室。いるわけないか)

 踵を返した時。背後から人の話し声が聞こえた。

 普段、練習室は防音構造であるため、重い扉がぴたりと閉ざされている。ところが「指揮者控室」という紙が貼られている扉が、うっすらと開いているのが見えた。どうやら、話し声はそこから聞こえてくるらしい。

(先生?)

 七音は不思議に思い、そっとその扉に近づいた。すると——。

「お前はいつもそうやって、僕を誘惑するんだね」

 北部の声が聞こえてきた。七音は足を止める。もう一人の声が聞こえてきたからだ。

「おれのせいじゃないでしょう? 先生が悪い」

「そうかな? またそんな魅惑的な衣装で現れるなんて。ルール違反だろう」

 まるで恋人同士の密会のようだった。七音は耳まで熱くなる。北部の声とそれに応える柔らかい声は——。

(歌川……、先輩?)

 隙間から見える様子に、七音は息を飲んだ。見てはいけない。そう頭の中で警告する声が響くのにも関わらず、七音は好奇心を抑えきれずに、そっとその扉に近づいた。

 長椅子にもたれ、近くのローテーブルに足を投げ出して寛ぐ北部の上に、鳶色の長い巻き毛。向日葵色の華やかなドレス姿の姫が馬乗りになっている。

 北部の、その細い指は、大きく開かれている姫の白い背中を何度もなぞり上げる。その度に、甘い吐息が漏れ聞こえた。

 七音は思わず腰を抜かした。声にならぬ声が上がりそうになった瞬間。後ろから伸びてきた大きな手に口を塞がれた。驚いて視線だけを上に向けると、そこには獅子王がいた。

 彼は片目を瞑ると「し」と口元に人差し指をあてがった。それから、七音の膝の後ろに腕を回したかと思うと、そのからだをひょいを抱え上げた。

(わあああ)

 目が回る、とはこのことだった。七音はあっという間に獅子王に横抱きにされると、その場から連れ出されたのだった。





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