第12話 王の憂鬱
音楽準備室で集まっていた3年生たちは、新入生の評価と、今後の活動についての話し合いに花を咲かせていた。
しかし獅子王は、みんなとは離れて、一人窓際に座り、じっと外に視線を向けていた。
すると、準備室の扉が開き、副部長であり、トップテナーのパートマスターである歌川が姿を現した。
「一年生のパート分けが決まったよ」
彼は顧問である北部から預かってきた一枚の紙を手にしていた。三年生たちは「早く見せろ」と声を上げるが、歌川はそんな集団には目もくれず、真っ直ぐに獅子王の元にやってくると、その紙を差し出した。
獅子王は歌川を見上げる。彼は眉一つ動かすことなく、冷淡な表情のまま獅子王を見下ろしていた。軽くため息を吐き、獅子王はその紙を受けとると、視線を走らせた。
——篠原七音。トップ。
七音の名前の脇には、北部の整った文字でそう書かれていた。どうやら七音は北部のお眼鏡にかなったようだ。ほっとしたのも束の間、違う思いが沸き起こる。獅子王は歌川に視線を戻した。
「くそ。お前のパートか。なんでトップなんだよ。七音はおれが面倒をみる。ベースにしてもらうように直談判してくる」
すると歌川は、肩を竦めて見せた。
「仕方ないよ。あの体格だもの。ベースなわけないでしょ。これは北部が決めたことだからね。おれはノータッチ」
「お前からも北部を説得してくれ。七音はおれが育てる」
「我がままいうな。自分の声に見合わないパートにされたら、七音がかわいそうだよ」
歌川はきっぱりと言い切った。そこに新入部員たちを帰宅させた学生指揮長の有馬が顔を出す。
「廊下まで声が聞こえているぞ。お前たちは騒々しいな」
「騒々しいのは獅子王だけだし」
「お前なあ……」
ぷいっと視線を背ける歌川に、なにか文句を言ってやろうかと口を開いたとき。有馬が「決まったようだな」と言った。歌川は「今年の一年生はなかなか良品が多いって。北部が喜んでいたよ」と答える。
「そうか。……それにしても、獅子王はなにを怒っているんだ?」
「七音が自分のパートじゃないって」
有馬は眼鏡をずり上げると、「呆れて、ものも言えないな」と言った。
「くそ。なんなんだ。くそー!」
「そう怒るなよ。致し方ないだろう。あの子の教育は、歌川に任せろ」
「そうだよ。おれに任せて」
「お前になんて預けられるか。この冷血漢」
「はあ? 本当に失礼しちゃうね。こんなにも優しい先輩はいないんだから。それに——。あの子の面倒をみるのは、おれしかできないじゃない」
獅子王は「それはそうかもしれないが」と口ごもる。隣にいた有馬は「確かに」と頷いた。
「先々代の七の女王陛下」
有馬は胸に手を当てると、まるで騎士が女王に傅くように、ゆったりと頭を下げて見せる。それを見下ろした歌川の漆黒の瞳が悪戯に光った。
歌川は獅子王たちの代の七の女王だった。七の女王といえば、各部活動の部長たちが争奪戦を繰り広げるものだ。しかし。彼の場合は違った。
人を寄せ付けない冷たい視線に、誰も声をかけることができなかったのだ。なんとかして、勧誘をしたい先輩たちの視線をものともせず、彼は自分の意志で合唱部に入部した。その時から、彼は「氷の女王」と呼ばれている。
歌川は「もう引退したんだから。その呼び方はやめて」と笑った。
「心配なんだろう。お前。七音のこと。心配してくれているんだな」
獅子王の問いに、彼もまた「獅子王もでしょう?」と言った。二人はじっと視線を合わせる。しばし沈黙の時間が流れたが、獅子王は大きく頷いた。
「おれが誘った。おれの責任でもあるからな。おれはあいつを必ず守り抜く。だから心配するな。歌川」
(そうだ。七音は。おれが守る)
しばし獅子王の気持ちを推し量るようにしていた歌川は、軽くため息を吐いた。
「そうしてあげて。これは獅子王の役割だからね」
有馬は「だな」と頷くと、獅子王を見据えた。
「お前。七音が好きなんだな」
「え!」
面等向かって問われても。少々たじろぐ。しかし、すぐに思い直し、表情を引き締めると「そうだ」と答えた。
「一目惚れした。七の女王だからじゃない。そんな肩書がなくとも。きっと。おれは七音に恋をしたと思う」
「そうか」
「バカが恋をすると質が悪い」
「だな」
有馬と歌川は視線を合わせると笑う。他の3年生たちもニヤニヤと笑って視線を交わしていた。
「おい。失礼じゃないか」
「いや。いいことだと言っているのだ」
有馬は眼鏡をずり上げると、堂々と言い切った。
「お前は青春バカ。ロマンスが不足していたからな。人間的に一回り大きくなって、いい演奏ができるようになるだろう」
「おい。上から言ってくれるが。お前だって恋人などいないだろう」
「おれはロマンスなどなくても、人として出来上がっているからな」
有馬は「ふん」と鼻を鳴らす。自信家で、優劣をつけてくる男だが。そこが憎めない。獅子王は思わず吹き出した。つられて歌川も笑う。
「笑うとは失礼だぞ」
「お前が失礼なことをするから。おあいこだ」と獅子王は言い返した。
「ふざけるな。あいこなわけないだろう。お前のほうが失礼だ」
有馬は怒り出す。けれど、二人の笑いは止まらなかった。
「それにしても。恋愛奥手の獅子王だ。さっさと対策を練らないと。あっという間に誰かに持っていかれるからな」
両腕を組んで、怒っているというのに、有馬は獅子王の心配をしてくれているようだ。歌川も「同感だね」と言った。
「あの子。大人しそうだし。押したらなびくタイプかも知れない。早めに手を打っておいたほうがいいんじゃない?」
「そうだろうか。七音はそんな子ではないぞ」
「いやいや。獅子王の押しで合唱部に入部したんだよ? 自分で選んだと思っているかもしれないけれど。結局は獅子王の押しに負けたってことじゃない。押して、押して、押しまくる。それしかないよね」
「そうだな。その押しを、恋愛奥手のお前ができるかどうか、って話だな」
「やってやろうじゃないか!」
(七音が誰かに取られるなんて、許すまじ状況だ!)
獅子王の心にメラメラと炎が燃え上がった。有馬は「明日の花見がチャンスだな」と言った。歌川も頷く。
「途中で抜け出すしかないね」
「二人でな」
「恋に時間は関係ないのだ。お前の気持ちをどんとぶつけろ」
「そうだね。七音もまんざらじゃなさそうだもの。可能性はあるよ」
「けど。相手は獅子王よりも、もっと初心者だぞ。どうするんだ。歌川」
「いいじゃない。獅子王のまっすぐキャラをぶつければ。七音はなびく」
「さすが。恋愛上級者」
目の前で繰り広げられる二人の会話に、獅子王は目を白黒させていた。
(そうだ。おれは——恋は奥手なんだー!)
「いいか。獅子王。告白までだぞ? それ以上は早すぎるからな」
「獅子王はお馬鹿さんだから。歯止めが効くかどうか」
「お、お前たち。おれをなんだと思っているのだ」
「だから。発情期真っ盛りのお馬鹿さんでしょう?」
「だな」
獅子王は「うおおおおい」と叫ぶ。歌川は苦笑して獅子王を宥めた。
「だからね。いい? 一番大切なのは、七音を傷つけないこと。七音を大事に扱うんだ。これは一番優先すべきこと。いいね?」
「わ、わかった」
「無茶はするなってことだ」
有馬も眼鏡をずり上げる。獅子王は大きく頷いた。明日は花見だ。新入生歓迎会の花見。これは一世一代のチャンス。入部してから、七音とゆっくりと話をする時間もなかった。
恋の告白——もあるが、本当に合唱部に入ったことが、彼にとって良かったのかどうか。彼の気持ちを聞いてみたいと思っていたのだ。
(明日。七音と話してみよう。もし、そこで負担をかけているようなら……)
目の前でああだこうだと面白がっている二人をよそ目に、獅子王はパート分けされた紙に視線を落とす。
七音は見事に北部の試練を乗り越えた。獅子王の危惧など意味もないことだったのかもしれない。七音は、合唱部の一員として立派に認められたということだ。
獅子王は首を横に振った。
(いや。おれが、一番お前を信じてやれていなかったのかもしれない。お前はこうして合唱部での試練を乗り越えているのだから。信じよう。お前のこと。おれが信じなくてどうする)
七音のはにかんだ笑顔を思い出し、獅子王は口元を緩めていた。
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