第11話 七の女王の宿命


「顧問の北部です。君が噂の女王陛下だね」

 バッハを弾いていた男は、優しい声色で言った。紳士的な大人の笑みだった。今までいろいろな教師と出会ったが、どの教師とも違う不思議な雰囲気が漂っている人だ、と思った。七音は、なんだか気恥ずかしくなって俯く。

「獅子王から聞いているよ。なんでも、徹夜して強引に君を手に入れたみたいだね」

 教師にまでそんな話が回っているのかと思うと、ますます恥ずかしい気持ちになる。

「あ、あの。せ、せ……先生。僕。う、歌は苦手で……。だ、だって。僕。こ、こんな話し方なんです」

 北部はにっこりと笑みを見せた。

「藤田先生から、君の言葉については聞いています。けれど、言葉を話すことと歌うことは、脳の中で使われる場所が違うものだ。だから言葉が上手ではなくても、歌はまた別問題。心配することはないよ」

 七音は唖然とした。あんなに思い悩んでいたことが、北部に一蹴されてしまった感じだった。まるで狐につままれたような気持ちで目を瞬かせていると、北部は軽々とピアノで和音を奏でた。

「ただし―—。歌が上手いかという問題はまた更に別の話。君が歌えるのかどうか。試してみましょう。自分が出しやすい、自然に出てくる声を出してみて」

(そ、そうだった。言葉の問題はなくても。歌えるかどうかってことが大問題!)

「は——……は、はい」

「『あ』でも、『お』でも。なんでもいいよ」

 七音は困惑しながらも、そっと声を出してみた。そもそも、人と話をすることが少ないというのに。人前で歌を歌うなんてことは、生まれて初めてに近い。心臓が音を立てて大きく跳ねている。口から心臓が飛び出してしまいそうだった。

(変に思われる?)

 そう心配をした七音だったが、北部は表情を一つも変えずに「じゃあ、この音に合わせて声を出してみましょうか」とピアノを鳴らした。ピアノの音に合わせて、うまく同じ音が出せるとは思えないが、やるしかないのだ。必死にピアノの音を頼りに、「あー」と声を上げる。 

「そう。じゃあ、こっちはどう?」

 北部は七音の声について、なんの評価も感想も述べてこない。それがなんだか居心地が悪い。いいのか悪いのか、はっきりしてもらったほうが、気持ちが落ち着くものだ。あまりにも必死で、緊張も羞恥心もどこかに行ってしまったようだった。

「じゃあ、これ読んで歌えますか?」

 北部は一枚の紙を差し出した。受け取ってみると、楽譜だった。相沢が言っていたものだ。四小節の中に、音符がぱらりと書かれている短い曲のようだ。

「楽譜は読めますか?」

 七音は首を横に振った。すると、北部は立ち上がって、「ここがソね。この音です」とピアノの鍵盤を弾きながら解説をしてくれた。しかし、七音の脳内には、なんの音も流れてはこなかった。音符という記号の羅列と、実際の音とがなかなか繋がらない。

 必死に北部の指導を理解しようと、楽譜とピアノの音に意識を向けてはみるものの、それが旋律メロディとして口から出てくることはなかった。

 しばしの間、同じ作業を繰り返した北部は、大きくため息を吐いた。

(呆れられたんだ……)

 テストは落第かもしれない。曉の言う通り。自分は合唱部を退部しなければならないかもしれない。そう思ったら、心臓がドキドキと大きな音を立て始めた。

 しかし。北部はふいに息を吸い込むと、柔らかい声色で歌い始める。一体、なんの曲なのかと目を瞬かせていると、歌い終えた北部は楽譜をひらひらと見せた。

「この楽譜に書かれている旋律メロディでした。どうかな? 僕の歌を聴いて、同じく歌えるでしょうか」

 七音は頷く。人に歌ってもらったものは、よくからだの中に行き渡った。七音の頭の中に、北部の歌った旋律メロディが鳴り響いていた。

 七音は北部に倣ってそれを歌った。

(これならできそう)

 うまくいったかどうかはわからないが、歌い終えてから北部を見ると、彼は「ふうん」と頷いてから、「はい。終了です。いいですよ」と言った。

(え、もう?)

 目を瞬かせていると、北部は「もう終わりって顔だね」と言ってから、傍にあるパイプ椅子を引っ張った。それに座れという意味らしい。七音は、その椅子をもらい受けてから、腰を下ろした。

「篠原七音くん。七つの音。まるで音階だね。そういえば、さっき。僕が弾いていた曲がバッハだとよくわかりましたね。周囲で音楽が好きな人がいるのでしょうか?」

「ち、父が。クラシック、音楽が、す、好きで。音楽だけは。よ、よく聞かされていました」

「そうですか。では、君の名前はお父さんがつけてくれたのでしょうね」

 頷いて見せると、北部は優しい笑みを見せたまま「七の女王と七つの音ね」といった。

「な、7は嫌い、です。ぼ、僕に。い、いつも不幸を与えるのは、7、です、から」

「おや。巷では7は幸運の数字と呼ばれているけれど。君にとったら、不運の数字だと?」

 七音はじっと黙った。北部は「ふんふん」と頷く。

「人はみな同じ量の幸運を持って生まれてくるそうですよ。その運がどこで使われるかは、人それぞへ。それだけの話です。だからもし、今までの君の人生が不運だらけだったとしたら。まだ君の幸運は残されているということになるね。これからきっと、いいことがたくさんあるんじゃないかな?」

「せ、先生は。な、七の女王なんて、ジ、ジンクスを、信じているのですか?」

 七音は真剣に北部を見つめ返した。すると、彼は軽く息を吐いてから「信じますよ」と答えた。

「僕は信じます。実際に、一昨年前。僕たち合唱部は七の女王の恩恵を受けたからね」

(え?)

「けれど、先ほども話した通り、人が持つ幸運の量は同じ。七の女王は、自分の持つその幸運を使って、勝利へと導く。つまり、七の女王になった生徒は不運に見舞われる、とも言われているけれど……」

(そんな。それじゃ、僕はこれからも不幸だってこと?)

「けれど―—」

 北部はにっこりを笑みを見せた。

「先々代の女王は、周囲の助けにより幸せになりました。大丈夫。僕は七の女王は、周囲も幸せにし、そして自分自身も幸せになる。そんな存在だと信じているのです」

「ぼ、僕も?」

「そう。ここには君を助けてくれる仲間がいるはず。特に君をスカウトしてきた獅子王。彼は裏表のない真正直な生徒ですよ。音楽初心者だというのに、君が合唱部に入ろうと思ったのは、彼の影響が大きいのでは?」

「——そ、そうです。な、なんでだろう。し、獅子王先輩に、み、見つめられると。息がと、止まってしまって。ずっと見て、い、いたくなると、いうか……」

 どうして自分は写真部ではなく、合唱部に入ろうと思ったのか。獅子王のあの目に説得されてしまった——。そういうこと以外に考えられない。

 北部は笑った。

「君はすっかり獅子王の熱に浮かされているみたいだね」

(へ!? それって、どういう意味……?)

 目を見開いて北部を見返すが、彼はにっこりと笑みを浮かべるばかり。

「獅子王に青春の大切な時間を預けてみるのもまた一興かもしれないね。君の選択に間違いがないことを祈ります。——さて。終わりにしましょうか。次の子は、えっと……。鈴木くんですね。鈴木くんを呼んできてくれますか」

「は、はい」

 七音は頭を下げてから、廊下に出た。

 北部という教師は変わった人だった。彼は「七の女王」を信じるといった。そんな大人がいるとは思ってもみなかったのだ。

 そして。

(先々代の女王が合唱部に? 三年生の中に僕と同じ女王だった人がいるっていうの?)

 色々なことが頭の中を駆け巡る。しかし。やはり気になるのはテストの結果。

(ううう。失敗ばっかりじゃないか。楽譜読めなかったし。でも——)

 自分でも驚いた。思ったよりも声が出たからだ。

(歌えるかもしれない)

 初めて歌った時。気持ちがよかった。声を出すってことが、こんなにもいい事だとは思ってもみなかったのだ。七音は小さく頷いてから、音楽室に戻っていった。






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