第10話 喧嘩
放課後。七音は優の後ろをついて、音楽室に足を踏み入れた。まるで処刑を待つ罪人の気分だ。心臓がバクバクと音を立てて、口から飛び出しそうだった。
音楽室には、新入生が集まり、椅子に座らされていた。
「おう。遅いぞ。優」と、新入生の一人、矢吹
優の説明だと、彼は附属中時代、合唱部で一緒だったという。すっかり気心知れた仲なのだろう。優は曉に「テスト始まった?」と尋ねる。すると彼は首を横に振った。
「まだだ。一年生は、音楽室で待機してろって、有馬先輩から指示があった。テストは第1練習室でやるって」
曉は七音に一瞥をくれた。優とは違い、切れ長の目は眼光鋭い。優しい雰囲気は微塵も感じられない彼が、七音は苦手だった。
落ち着かない気持ちで、そこに立っていると、銀縁眼鏡の有馬が顔を出した。彼はセカンドテノールのパートマスターであり、学生指揮長でもある、と優が説明してくれたことを思い出した。
長身でスマートな体躯の男だった。神経質そうな鳶色の瞳が、そこにいる一年生たちをじろりと見渡した。一年生たちは黙り込み、ただ有馬の顔を見返していた。すると、はっきりとしたよく通る声で、「相沢」と言った。呼ばれた相沢は、おもちゃのびっくり箱の中から、バネで飛び出してくるピエロの人形みたいに、立ち上がった。
「まずはお前からだ。第一練習室だ」
有馬はそれだけ言うと、さっさと姿を消した。相沢は泣きそうな表情のまま、黙って音楽室から出て行った。どうやら「あいうえお順」で呼ばれていくらしい。
(歌……なんて。歌えない。「失格です! ブブー。辞めてください」って言われたら、どうしよう……)
七音は、心がざわついた。いつもは口数の多い優ですら、静かに座っているばかりだった。ここにいる新入生たちみんなが緊張しているのがわかる。
経験者である優がこんな有様では、素人の自分はどうなってしまうのだろうか。不安で不安で堪らなかった。
しかし、そうこうしているうちに、あっという間に相沢が戻ってきた。一人にかかる時間は、そう長くはないらしい。彼は次の生徒に声をかける。次の生徒が席を立つと、すぐに相沢の周りには人だかりができた。
彼の話だと、どうやら難しい曲を歌わされるわけではないらしい。楽譜を見せられて、「読めるか、読めないか」を問われる。相沢は楽譜が読めるので、そう答えると、楽譜通りに歌うように指示された、というのだ。
(が、く、ふ!? 読めるわけない……)
七音はゴクリと喉を鳴らした。心配な気持ちで相沢を見ていると、彼は「読めるって言っても、簡単なのしか読めないから。そんなおれでも歌えるくらい簡単な
その内に、テストは順調に進んでいく。とうとう優が呼ばれた。いつもは見せないような緊張の面持ちの優は黙って腰を上げた。七音は思わず、彼の制服の裾を引っ張る。優は弾かれたように振り返った。
気の利いた言葉などかけられない。けれど——「頑張って」。そう伝えたかったのだ。
「あ、あ、あの」
だが。言葉が出なかった。七音は、生まれて初めて、自分の吃音症が嫌になった。大事な人に、大事な時に、気持ちがうまく伝えられない。言葉が出ないというのは、こんな問題が起きるのか、と初めて気がついたのだ。
七音は、もどかしい気持ちを持て余し、言葉を紡ぐことを諦めた。ただ黙り込んで視線を落としたのだ。ところが。優の手が、七音の腕を握った。はったとして顔を上げると、彼は「ありがとう。頑張ってくるね」と言って笑った。
優に自分の気持ちが伝わったのだ——。そう思った瞬間。なぜか心が弾んだ。家族以外の人間と、心の交流をしたことが少ない七音にとって、この瞬間はとても意味のあるものに感じられた。
嬉しい気持ちになって、椅子に腰を下ろす。すると、近くに座っていた曉と視線が合った。
「ちやほやされて」
小さい声だったが、確かに彼はそう言った。七音は目を瞬かせて、曉を見返した。
「歌なんて歌えるのかよ」
彼は続けてそう言った。それからぷいっと視線を逸らす。隣にいた
「たまたまあの席に座っただけだろう? 初心者のくせに。獅子王先輩に可愛がられているからって。おれは、本気で合唱やるために梅沢にきたんだ。腑抜けた奴は、いい迷惑だ」
「ち、違う……そ、そう、じゃ……」
「お前なんて、テストで落ちるに決まってる」
「だから、やめろって」
周囲が騒然となった。
「喧嘩すると怒られるぞ」
「そうだ。テスト前に余計なことしないでくれ」
それぞれが曉に対する不満を口にする。さすがに
(僕……迷惑? 僕が合唱部に入るのって、そんなに迷惑なことだったの?)
合唱部に入ると決めて、優は喜んでくれたのに。それは嘘だったとでもいうのだろうか。七音の中の不安は余計に増幅していく。目の前の景色がグルグルと回って、喉に息が詰まっているくらい苦しかった。
すると、そこにテストを終えた優が戻ってきた。彼は「あー、緊張した」といつもの調子に戻っている。テストを終えた解放感だろうか。
「お前、自分ばっかり終わったからって、清々した顔して。むかつくな」
まだテストを終えていない一年生からは、不満の声が上がるが、優はまったくもって気にしていないらしい。
「だって、いいじゃん? みんなもすぐ終わるって。大丈夫。大丈夫!」
優は七音の隣に、どっかりと腰を下ろした。すると、「大丈夫だったよ。七音が応援してくれたから。平気だった」と笑った。しかし、七音の気持ちは複雑だった。七音の様子は、緊張のせいだと思っているのか。優は今度は逆に、七音の手を握る。
「大丈夫。そんなに固くならなくても。おれがパワーを送ってしんぜよう!」
「あ、あ……ありがとう」
「よし、これでオッケー! 万事うまくいく!」
優は「あはは」と笑った。彼の笑顔は突き抜けて明るい。彼には救われる部分も多い。優の後ろで視線を逸らしている曉のことは、もちろん気になるところだが。今はテストに集中するしかない。
(そうだ。頑張ろう。自分にできることを、自分なりにやってみるって決めたんだから……)
自分の心に言い聞かせるように頷くと、「次。篠原だって」と声がかかった。
自分の名が呼ばれた。一気に緊張が襲ってきた。優に教えてもらった通りに、廊下に出ると、すぐに右に曲がって一番奥の扉をノックした。
梅沢高校には、音楽室が二つ存在する。一つは、本校舎の三階にあり、管弦楽部が練習で使用している。合唱部が使用する音楽室の建物には、小さい練習室が5つあった。三畳ほどの小さい部屋には、アップライトのピアノが備えつけられていた。
上級生たちが、パートに分かれて練習をしている声が聞こえてくる。防音設備があるとはいえ、男子高生たちの声量はものすごいものなのだろう。
『第1練習室』と書かれた扉を開くと、中からピアノの音が聞こえてきた。バッハのインベンションとシンフォニア——。クラシック好きの父親がよく聞いている曲だった。
「バッハ……」
「おや。知っている子がいたね」
ピアノの音が止み、男が振り返った。すらりと長身の男だった。白髪交じりの短髪。黒縁でできている楕円形の眼鏡の奥からは、灰色の優し気な瞳がのぞいていた。
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