第2章 神は恋も試練も与えるもの

第9話 女王と騎士


 翌日——。一晩が経過し、七音の頭の中は「本当にこれでよかったのか」という疑問符で埋め尽くされていた。少々、沈んだ気持ちのまま教室に顔を出すと、優が嬉しそうに駆け寄ってきた。

「七音~! やっぱり来てくれると思っていたよ」

「心配……。だ、だけど」

「大丈夫だって!」

 彼は七音の背中をバチンと強く叩いた。あまりの強さに、七音は思わず咳込んだ。恨めしい気持ちで彼を見つめるが、優は嬉しそうに笑みを見せるばかりだ。

 あれから。保健室を後にして、七音は獅子王と共に音楽室に足を運んだ。そこにはたくさんの部員たちが待ち構えており、みんなが「七の女王獲得」の報に湧いていたのだ。

 周囲が喜ぶほど、七音の不安は大きくなる一方だ。みんなが期待してくれるほどの力はないということ。

 そんな彼の不安を汲んでくれたのか。獅子王は七音を「特別扱いはしない」と宣言した。他の部活動のように、「いてくれればいい」ではないということだ。厳しい物言いではあるが、七音にとったら嬉しいことでもあった。

 比佐とは、視線が合うことはなかった。二度も助けてもらったお礼をしたかった。しかし。彼は友人と笑い合っていて、七音を見ることがなかった。

 色々なことが立て続けに起きて、昨日の記憶がところどころ抜け落ちているようだった。

(こんな調子で、大丈夫なわけない。それに)

 笑みを見せる優に向かって、ため息を吐くが、彼は「どうした、どうした?」と軽い調子で七音の顔を見つめ返した。

「なにが不安?」

「な、なにって。ぜ、全部。だ、だって。僕……、が、合唱なんて初めてで。先輩たちも、た、たくさんいて。聞いても。よくわ、わからないし」

 優は「なーんだ、そんなこと」と言って笑った。

「部活では部長が一番偉いんだよ」

「そ、それくらいはわかるよ……」

「えー。そう?」

 優は「ええと、ええと」と思考を巡らせてから、手を打ち鳴らした。

「男声合唱部は、パートが四つに分かれているんだよ。音域によって、高いほうから、トップテナー、セカンドテナー、バリトン、ベースってね。各パートには三年生のパートマスターと、二年生のサブパートマスターがいるんだ。他には部長、副部長、学生指揮長がいるわけ」

 優は流暢に説明をしてくれた。

「ベースのパーマスは、獅子王先輩。それから、トップテナーのパーマスは副部長の歌川凛太朗先輩。ほら、一番背の低い、華奢でキレイな先輩」

 七音は、みんなの前に並んでいた先輩たちを思い出す。長身でがっちりとした体躯の獅子王が一番目立っていたことはいうまでもないが。

 他のメンバーたちも負けず劣らずの長身が揃っている中、小柄で細身の男が一人いた。彼は歌川と名乗っていたと思い出したのだ。

「あの先輩……」

「歌川先輩は一番、優しそうに見えて鬼なんだって。怖いらしいよ。それから、セカンドのパーマスは、学生指揮長の有馬景虎先輩。この先輩は悪魔って噂。眼鏡をかけた長身の」

 長い前髪を両脇に流し、銀縁の眼鏡を光らせた男を思い出す。

(あれが有馬先輩……。確かに悪魔っぽい)

「そしてバリトンが保志ほし大介先輩。保志先輩は獅子王先輩ほどじゃないけれど、がっちりした体格で、中学校の頃は柔道部だったんだって。悪いことすると、すぐ寝技で昇天させられるらしいよ。怪物みたいな人だよね」

 七音は、獅子王の隣にいた恰幅のよい男を思い出す。それから、「ちょ、ちょっと、ま、待って」と優の腕を掴まえた。

「なあに?」

「み、みんな、怖い人、じゃ、ない」

「ああ、そうかもね」

 優は笑った。

「3年生って、もう大人みたいだもんな。おれたち1年生からしたら、雲の上の人たちって感じだよね~」

 昨日、一年生の前に並んで挨拶をしていた先輩たちは、妙に大人びていて、自分たちとは全く違う人たちに見えた。

「あ、あの。ひ、ひ、比佐、先輩って」

 優は「比佐先輩に助けてもらったんだってね」と笑った。

「比佐先輩は、昔から老若男女にモテるタイプだから」

「優は、知ってる……の?」

「中学校から一緒だし。知っているよ。あの容姿だし、仕草がスマートで騎士ナイトみたいだよね。けど、誰にでも優しくしちゃうからね。ついうっかり勘違いする人が多いんだ」

(誰にでも優しい……)

「大会では、勘違いした女子高生たちの間で修羅場が勃発するって話。七音には獅子王先輩がいるんだから。よそ見しちゃダメだよ」

「え! え? え……?」

「七音は獅子王先輩とお似合いだよ。王と女王なんて、いいじゃん!」

「そ、そんな、んじゃ……」

 七音は恥ずかしい気持ちになって俯く。それから、比佐のことを考えた。どうやら、七音が思っているような人ではないということらしい。たった一度の出会いで、比佐を美化しすぎていたのかもしれないと気がついたのだ。

(それはそうだ。僕はあの時の先輩しか知らないんだ。そう。僕が勝手に妄想して、理想化していただけ。僕の勘違い。先輩のせいじゃないのに)

 憂鬱な気持ちになっていると、ふと優が話題を変えた。

「今日は、先生が一人ずつテストをしてパートわけするって言っていたよ。どの先輩の下につくのかでも部活動人生の質が変わるからね。七音と同じパートだといいな」

「て、テスト?」

 驚いて、声がひっくり返りそうになった七音を見て、優はにっこりと笑みを見せる。

「昨日の最後に言われたじゃん。明日テストですよって。北部先生の前で、一人で歌うんだって。あー、緊張するな。昨日の夜は眠れなかったよ」

(それはこっちのセリフだよー!)

 やはり記憶が曖昧なようだ。テストのことなど、すっかり覚えてはいない。七音は心臓がドキドキと大きな音を立てるのを聞いた。

「テ、テストって、どんなこと。す、するの?」

「おれもわかんないよ~。短いフレーズ歌ったり、音階歌ったりするのかなあ」

(フレーズってなに? 音階って、ドレミってこと?)

 目の前がぐるぐると渦巻くようだ。

「大丈夫かー! 七音!」

「うう。僕。ぜ、全然わからないんだけど……。ゆ、優のこ、言葉、日本語じゃ、ないみたい!」

「面白いこと言うなよー。七音。大丈夫だ。いや、大丈夫じゃない。おれも大丈夫じゃない。けど、必要なものだ。一緒に頑張ろう!」

(頑張ろうって言われても……)

 優は中学校時代から合唱部に所属していると聞いた。彼は経験者だ。その彼が緊張するというのだ。七音は余計に不安を募らせた。

「が、楽譜。読めるかな……」

「ねー。歌詞とかついていたら、困るんだけどな~」

「か、歌詞……?」

 優は七音を席に座らせると、自分も隣の空いている席に腰を下ろす。

「顧問の北部先生は宗教曲と外国語の曲専門だから。歌うのは、ラテン語、ドイツ語、英語。そんな曲が多いんだよ。ラテン語はいけるけど。ドイツ語は困るなあ」

「ら、ラテン語って……聞いたことない」

「大丈夫。ローマ字読みだから。英語より簡単だって」

 覚悟していたとはいえ、経験者と未経験者の間には雲泥の差が存在するようだ。

(こんなにわからないことばっかりで、大丈夫なのかな)

 なぜ合唱部に入ろうと思ったのだろうか。時間が経つにつれ、自分の選択が誤りであったのではないかと不安になるばかりだ。

(いきなり、ラテン語の楽譜を渡されて歌わされたりするのかな……。無理、無理! そんなことできるわけないし)

 そもそも、人前で歌うなんてこと。自分にできるのかどうかすら不安で仕方がなかった。合唱であれば、みんなと一緒に歌うのだ。少々、音がずれていても、間違っても、小さい声で歌えば気がつかれない。そういう甘い考えがあることは認めるところだ。しかし。

(一人ずつのテストって……)

 なんだか考えただけで具合が悪くなってくる。そのうち、隣の席の生徒も登校してきて、優は「またあとでね」と立ち去った。

 一時限目の担当教師が「おはよう」と顔を出すが、それどころではない。七音の頭の中は、放課後のテストでいっぱいだった。






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