第8話 保健室の二人


「イテテ。もっと優しくしてくれ」

 誰もいない保健室。七音はシャツをめくりあげて、獅子王の背中を観察していた。

 パイプ椅子が小さく見えるのは、椅子のせいではない。獅子王のからだが大きいのだ。

 彼は「大丈夫だ」と言い張るが、七音は心配になり、彼の腕を引っ張って保健室に連れてきたのだった。しかし。入部式は生徒たちが主役の祭りである。教師たちは職員会議で出払っているようで、養護教諭の姿は見当たらなかった。

 素人の自分が見ても意味があるのかどうかはわからないが。ともかく。自分のせいで怪我をされたのでは、気持ちが収まらない。七音は、獅子王の背中に傷がないかどうかの確認をしていたところだった。

「お前。大人しいのかと思ったが。結構、強引なのだな」

 獅子王はそう言った。ここまでくるのに、無我夢中だった七音は、そこで自分のしでかしたことに気がついた。それから急に耳まで熱くなった。

「す、す、すみません……」

「謝ることではない。意外だっただけだ」

 獅子王は笑った。シャツの下から覗く獅子王の背中は筋肉が隆起し、強固なものであるということが理解できた。あの高さから落下しても、傷一つないとは見事としか言いようがなかった。これもこうして鍛え上げられた肉体がなせる業だろう。

 あのまま一人で落下していたら。七音の華奢な体では、骨の一本や二本、折れていたに違いない。

 くまなく目視で確認を終え、七音は安堵のため息を吐く。すると、獅子王はくるりと振り返って七音を見上げた。

「だから言っただろう。打ち身だ。数日もすれば落ち着く。そういうお前は大丈夫か? 唇のところから血が出ているぞ。口の中を切ったのではあるまいな」

 首を横に振って見せても、獅子王は納得しない様子だ。「今度はお前の番だ」と、自分が座っていたパイプ椅子に七音を座らせると、両手でその頬を挟んだ。

「ひ……っ」

「ほら。口の中。見せてみろ。痛かっただろう」

 漆黒の瞳は心配気に七音を見下ろしている。七音は、まるでいざなわれるように、そっと唇を開いた。

「ほらみろ。ここ。切れているぞ。ちょっとまて。消毒があったのではないか」

 獅子王は周囲に視線を配る。七音はそっと彼の腕を握った。言葉がうまくない。彼に気がついてもらうには、こうするしかない。そう思ったのだ。すると、獅子王は、そっと七音を見返した。

「だ、だい、大丈夫で、です。こ、このままで。大丈夫。な、なんです」

「しかし」

 七音は首を横に振る。

(いいんです。こうして。助けてもらっただけで。僕は嬉しい)

 じっと彼の視線を見返すと、獅子王は「わかったよ」と優しい声で言った。どうやら気持ちが伝わったようだ。ほっとしたら、なんだか涙がこぼれた。怖かったのだろう。こんな経験は初めてだった。

 もともと、人と関わったことがなかった。だから。こんなに色々な人の熱量を感じてしまうと、「怖い」と思ってしまう。

 それに。あの人にも会えた。彼は合唱部の二年生、比佐ひさ康郎やすろうと名乗った。合唱部の副部長だそうだ。二度も助けられた。あの桜の並木道で。そして、今回。高崎の拳が七音に届きそうになったのを止めてくれたのだ。

 獅子王が保健室に行くということで、現状報告をすると先に音楽室に向かった比佐。七音はずっと彼のことばかり考えていたというのに。比佐は、七音とはまったくの初対面のように振る舞っていた。

 内心。それもショックだった。

(きっと。あの人は僕のこと、覚えていないんだ。そうだ。そんな程度だったんだろうな)

 色々なことが立て続けに起きたことと、比佐との再会で、七音の心は嵐のように混乱していたようだった。こうして、静かな保健室で、獅子王と二人きりになって、緊張の糸が切れてしまったようだ。

「なぜ泣く。痛いのか?」

(違う。違うんです)

「泣くな。お前は笑っていたほうがいい。悲しい顔をされると、おれも悲しくなる」

「な、なんで。ぼ、僕が、七の女王、だから。ですよね……。こ、こんな痛い思いまで。すみません。ぼ、僕のせいです。全部。僕が、まっすぐに、音楽室に行っていれば、よ、よかったのに……」

(そうだ。僕は余計なことばかりして。馬鹿みたいじゃないか。比佐先輩は僕のことなんて、どうでもいい。僕は、馬鹿みたいに。なに期待しているんだ)

「あの時の。梅沢高校に来たんだね。よろしく」

 そんな言葉でも期待していたというのだろうか。そんな自分の身勝手な都合のいい妄想に、獅子王を巻き込んでしまったことを考えると、心が苦しくなった。

「そんなことはない。自分を責めるな。お前のせいではない。『待っているぞ』なんて恰好つけて言ってしまったからな。しばらくはお前が来るのを待っていたのだ。けれど。よく考えたら、お前は七の女王だ。一人で無事に音楽室にたどり着けるはずがないと、思い直した。迎えに行くのが遅くなった。ずいぶんと怖い思いをさせてしまったな」

 獅子王の大きな手が、七音の頭を撫でる。

(それだけじゃない。それだけじゃないんです)

 獅子王は黙ってそっと七音の頭を撫で続けてくれていた。こんな優しいことをしてもらったことはない。どうしたらいいのかわからなくって、気持ちが制御できなくなってしまった。

(先輩は。僕が七の女王だから。こうして親切にしてくれるだけ。勘違いしちゃ駄目だ)

 そう自分に言いきかせるが、目の前にいる獅子王の優しさが純粋に自分に向けられていると思いたくなってしまう。七音は必死に言葉を探した。

「ぼ、僕は、な、七の女王って言われますけど。そんな力、ない……ないんです。だ、だから。ぼ、僕に期待、されても……」

(ううん。もしかしたら。今回みたいに、獅子王先輩を不幸にするのかもしれない)

 しかし——。獅子王は七音の言いたいことを理解したのか、口元を緩めてから七音をそっと抱き締めてくれた。獅子王のからだは温かい。疲弊した七音の心を包み込んでくれるようだった。

「七の女王は、確かに魅力的なワードだ。事実、おれは七の女王を獲得するために徹夜した。けれど。お前を見て一瞬で理解した。おれは七の女王だからお前に入って欲しいのではない。篠原七音という人間と一緒に歌いたいのだ」

(僕で、いいの? 本当に……?)

「お前はこうして自分の意志で合唱部の入部希望届を書いたのだろう? それでいいではないか。一緒に歌おう。後悔させない。素晴らしい高校生活を約束する。お前は我が合唱部の大事な新入部員だ」

 からだが離れていった。七音は獅子王を見上げる。彼は笑顔を見せていた。七音は思わず彼の笑顔を直視できずに俯いた。世の中にはこんな人間がいるものかと驚いたのだ。

(この人には損得とか、そんなことは関係ないんだ。この人は——)

「い、いいんですか。僕で……」

「何度も言わせるな。おれはお前がいい。お前と出会えたこと。神を感謝している。大丈夫だ。おれが守る。おれを信じろ」

(信じてみよう。この人のこと)

 七音は小さく頷いて見せた。すると、彼は「どれ。音楽室に戻ろう。みんな心配しているかもしれない」と声色を明るくする。

 獅子王は制服を着こむと、七音に手を差し出した。どうしたらいいのかわからない。七音はそっとその手を受け取った。彼は満足げに笑みを見せる。

 獅子王の手は熱く、そして大きかった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る