第7話 女王争奪戦


 部活動入部式が始まった。一年生の教室がある廊下には、上級生たちが溢れ、一人でも多くの部員を確保しようと勧誘活動に勤しんでいる。

 合唱部に入ると決めている優から「一緒に行こう」と誘われたが、七音にはやることがある。適当に誤魔化して、彼を先に音楽室に向かわせた。

(このチャンスを逃したら終わり。あの人を探すんだ)

 効率よく、機敏に部活動巡りをするのだ。冊子を眺めて、何度も回る順番をシミレーションした。大丈夫―—。そう自分に言いきかせてから、足を踏み出す。

 すると、背後が騒がしくなった。振り返ってみると、七音のクラスの前にたくさんの人だかりができていた。

「おい! 七の女王を出せ」

「出せって言われても。……今さっき、出ていっちゃいましたよ」

 クラスメイトの言葉に、勧誘にきた人込みから「探せ」とか、「捕まえろ」とか、物騒な言葉が飛び出した。

(え! そ、そうか。そうだった!)

 七音は指名手配犯が逃げるように、部活動一覧の冊子で顔を隠しながら、トイレに駆け込んだ。七音が人探しをしている事情など関係なく、各部活動からの勧誘は続くはずだ。

(どうしよう……。困ったな。でも、この機会を逃したら。もうないかも知れないんだ。僕はあの人に「ありがとう」するんだから)

 しばしの間、深呼吸を繰り返した後、「よし」と頷く。それから冊子で顔を隠し、できるだけ目立たないようにと、静かに廊下の隅を歩いていった。

 廊下には和装の文芸部。ガーデニングのエプロンの園芸部……。さまざまな部員たちが、あちこちで声を上げていた。彼らの周囲に集まる人だかりを避けるように、七音はそっと階段を上っていった。


 二階に上がるのは、入学してすぐに学校案内をされた時以来だ。周囲の人と、できるだけ視線を合わせないようにしながらも、注意深く人の顔を観察していく。

 人、人、人。たくさんの人に、なんだか目の前がクラクラとしてきた。昨晩。あまり眠れなかった。入部届を書くのに、ずいぶんと時間がかかったのだ。

 七音はポケットに入っている入部届を、服の上から撫でる。

(部活は決めた。いいんだよね。これでいいんだ)

 散々悩んで決めたこと。この選択の結末がどうなるかは、今の七音にはわからない。

「あんたは写真部がいいよ。ただ黙々と撮っているだけでいいし。品評会なんて、黙っていたって平気なんだから」

 昨晩。部活動の冊子を見ていた姉の奏はそう言った。母親も「そうね」と同意していた。家族が推すのだ。その選択は間違いがないということ。七音もそう思った。

(写真部は、二階の奥にある視聴覚室で活動しているって書いてあったはず)

 そんなことを思いながら、足を踏み出した瞬間。ふとある男と視線が合った。その男は丸い眼鏡。そして今日は騎士の甲冑をまとっていた。

(あ!)

 急いで目を逸らすが遅い。甲冑の男——演劇部長の鎌田は「七の女王だ!」と叫んだ。鎌田の声に、周囲にいた他の生徒たちも一斉に七音を見る。こうなってしまうと、一歩も動くことができなくなってしまった。

「あれが?」

「女王か」

 ヒソヒソと囁かれている声に、膝が震えた。こんなにも大勢の人に注目されるのは怖かったのだ。動けなくなってしまった七音の腕を鎌田が掴み上げた。

「捕まえたぞ! 探したんだから。君は娘役に適任だ。さあ、僕たちと一緒に演劇をやろうじゃないか」

 するとすぐ隣から男が顔を出す。

「なにを言う。美術部だ! 一緒に絵を描こう。絵を描くのは楽しいぞ。優劣などない。君の気持ちをキャンバスに描く。これだけでいいのだ! そうだな。君だったら、モデルにも適任かもしれない。モデルになってくれ。七の女王を題材に絵を描いてみたいものだな」

「横取りする気か? ずるいぞ。高崎!」

「うるさい。抜け駆けしようとするお前のほうがずるいぞ。鎌田!」

 七音を挟んで、二人は諍いを起こし始める。

「前々から貴様のことは気に食わなかったのだ。このコスプレヲタク!」

「はあ? 言ったな! 女の裸ばっかり追いかけているクセに」

 もしかしたら、二人の間には以前からの因縁があるのかもしれない。あっという間に取っ組み合いの喧嘩に発展していく。七音は膝がガクガクと震えて動くことができなかった。

 二人の口論はヒートアップしていくばかりだ。あまりの騒ぎ、周囲の者たちが止めに入ろうとするが、それを振り切った鎌田が高崎に掴みかかった。

 高崎はそれを払うと、腕を振り上げる。鎌田は、姿勢を低くすると、軽々とそれを避けた。そのおかげで、高崎の拳は、当たり所がなく、そこにいた七音にぶつかりそうになった。

 七音は思わず体を小さくした。しかし。それは七音には届かない。そろそろと顔をあげてみると、高崎の腕をがっちりと掴んでいる男が隣に立っていたのだ。

 窓から差し込む光で、彼の顔はよく見えなかったが。その後ろ姿は——。

「女王が欲しいのはわかるが、女王を傷つけてどうするんですか。とても紳士的振る舞いとは思えないですよ! 先輩方」

 華奢で。しかし、その背中は見覚えのある背中。

(あの時の——!)

 七音は男の横顔を必死に見上げた。あの日。桜並木の下で、七音に声を掛けてくれたあの人だったのだ。七音の心臓が高鳴る。

 男の目の前にいる鎌田と高崎は互いに気まずそうに視線を逸らす。それから、「だって、こいつが」とか、「おれは悪くない」とか、互いに責任の所在を擦りつけ合っているようだった。

「大丈夫?」

 二人の闘志が萎えたことを確認したのか。男は七音を振り返った。あの時見た、形のいい唇が弧を描いた。

「あ。あの。あ、あ、あり、ありがとう、ござい、ま……」

 七音は頭を下げた。と、不意に体が後ろに引っ張られた。そうだ。まだ女王争奪戦が終わったわけではないのだ。

 背後から伸びてきた逞しい腕が、七音の制服を掴んでいた。振り返ると、柔道着の男が見えた。

 七音は、男の手を振り払おうとからだの向きを変えようとしたその時。大きくバランスを崩した。そこは階段の上り口だ。七音の体は大きく揺らぎ、あっという間に足を踏み外した。

「危ない!」

「ああ!」

 周囲の叫び声に、自分がどういう状況に陥ったのかを理解する。

(落ちる。僕、落ちるんだ——)

 七音を助けてくれた男の腕が伸びてくるが、それは虚しくも七音の指をすり抜ける。

(もうダメだ)

 七音は落下後の衝撃を想像して覚悟を決める。真っ逆さまに落ち込む中、態勢を変えられるほどの身体能力は持ち合わせていない。落ちた瞬間の衝撃を少しでも和らげようと身を丸める。と、暖かいものに包まれた気がした。

 恐怖で体温が急激に下がったからだに触れる、その温もりは——。

 ドンという鈍い音と衝撃に歯を食いしばる。口の中に鉄の味が広がった。しかし、思ったよりも痛くはない。

「ううう」と低い唸り声にはったとした。慌てて目を見開いてから、からだを起こすと、自分の下には獅子王がいた。

(獅子王先輩!?)

 彼は七音をかばって一緒に落下したのだろう。頭でも打ちつけたのだろうか。彼はその逞しい腕で自分の頭を押さえると、首を横に何度も振った。

「あ……っ、あ……」

 言葉が出ない。七音は獅子王のからだに触れた。どこか怪我をしていないかと心配になったからだ。

 両手であちこちに触れると、「くすぐったいから止めてくれ」と獅子王の声が聞こえた。

(だって。だって——)

「獅子王先輩! もう、無茶するんですから!」

 階段上から、七音を助けてくれた男、それから高崎や鎌田、柔道部の男が駆け下りてきた。

 獅子王はむっくりと立ち上がると、七音の肩に手を置いた。不安と恐怖の気持ちが、まるでその手のひらに吸い取られていくように、心が軽くなる。

「すまん。こんなつもりはなかった」と柔道着の男が獅子王に頭を下げる。

「おれに謝るなら、七音に謝れ。こんなに震えて。怖かっただろう?」

 獅子王は七音の手を、その大きな手で包み込んだ。そこで初めて、自分が震えていたことに気がついた。そっと視線を上げると、獅子王の優しい瞳が七音を見つめていた。なんだか気恥ずかしくて、視線を逸らす。

「お前は大丈夫か? 獅子王」

 鎌田や高崎は獅子王のからだを観察していた。

「おれは平気だ」

「平気って。お前——」

 鎌田は階段を見上げた。15段以上もある階段だ。そこを、七音をかばいながら落ちたのだ。無傷というわけにはいかないだろう。

「おれを誰だと思っている。こんなこと。大したことない。それよりも。こんなところでうろついているな。どうせ、心は決まっているのだろう?」

 獅子王の手には、七音の入部届が握られている。いつの間に取られたのだろうか。七音は恥ずかしい気持ちになって俯いた。

「う、歌。歌える、でしょうか……」

「ああ、歌えるさ。お前はいい声をしている。きっとうまくなる」

 獅子王は笑みを見せると、七音の頭を撫でた。高崎も鎌田も。誰も文句を言う者はいなかった。

 家族は口を揃えて「写真部がいい」と言っていた。それは正しい選択だということも理解していた。けれど。七音の心は違った。心が。合唱部を望んだ。ずいぶんと悩んだ。今まで生きてきて、こんなに悩んだことはなかったかもしれない。

 だからこそ。この選択は正しいと信じたい。自分で決めたのだ。できるかどうかはわからない。自信もない。けれど。

 ——やってみたい。

 そう思ったのだ。みんなが、七音のことを「七の女王」と呼ぶ中、獅子王だけは違った。

(僕の名前。ちゃんと呼んでくれる。この先輩だけは……)

 獅子王は七音の入部届を掲げると地の底にまで響き渡るような声を上げた。

「ここに宣言する。七の女王である篠原七音は、合唱部がもらい受けた。いいな。今後一切、他の誰にも手を出すことは許されない」

 獅子王という男は、その名の通り王だった。そこにいる誰もが、彼の宣言に逆らうことはできない。鎌田も高崎も顔を見合わせて肩を落とした。

 七の女王争奪戦は、あっけなく幕を閉じたのだった。





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