外伝1 越後の龍①

 1528年〜1532年。

 この間、ヨーロッパでは、オスマン帝国皇帝・スレイマン一世により神聖ローマ帝国の都市の一つである、オーストリアのウィーンが包囲された。この戦いはヨーロッパにイスラーム勢力の脅威を知らしめた。

 そのころ、極東の島国・日本もまた、別の意味で荒れていた。

 この時代の日本の年号は「享禄」であった。

 戦乱が絶えることのない群雄割拠の世、戦国の幕開けのただ中である。

 西国では「大物崩れ」と呼ばれる戦いが起きていた。

 細川晴元、三好元長、赤松政祐の連合軍が、かつての将軍家の威を背にした細川高国を大物にて討ち果たした戦いである。

 この敗戦により、高国は処刑され、彼に連なる旧勢力は一掃された。

 後世、この戦を人々は「天王寺崩れ」とも呼ぶ。

 だが、この戦乱は西だけの話ではない。

 東国でも、血で血を洗う権力争いが続いていた。

 その中の1国。越後。

 ここでは「上杉」と「長尾」という2つの家が対立していた。

 守護大名は上杉定実。

 守護代は長尾為景。

 名目上は上杉が主であり、長尾は従である。

 しかし実際の越後を動かしていたのは、守護代・長尾為景の方であった。

 為景は、主君・上杉房能、顕定を次々に討ち取り、実力で越後を掌握した。

 主を討ち、己が頂に立つ。まさしく下克上の体現者。

 その覇気と冷酷さから、人々は彼を「越後の梟雄」と呼んだ。

 梟雄。残忍にして勇猛、策略と野心に長けた者への称号である。

 同じく「梟雄」と称された者の中には、美濃の斎藤道三がいる。

 彼もまた主君を討ち、国を奪った男。

 長尾為景と斎藤道三は、まさに戦国という下克上の時代そのものを象徴する存在であった。

 しかし、為景の支配にも次第に陰りが見え始める。

 長年の苛烈な統治に反発する諸勢力。上条氏、宇佐美氏、揚北衆などが次第に蜂起。

 上杉定実もまた、名ばかりの守護としての立場に不満を募らせ、これら反長尾勢と結んだ。

 春日山城をめぐる争いは幾度も繰り返され、為景は一時的に隠居を余儀なくされる。

 上杉定実は名目上、守護としての威を取り戻したが、もはや越後一国を掌握する力はなかった。

 この時代、越後は一つの国でありながら、まるで二つの勢力に引き裂かれたような不安定な国情にあった。

 享禄2年(1530年)1月21日。

 その混乱のただ中、長尾為景に一人の子が生まれる。

「おぎゃあ! おぎゃあ!」

 産声を上げたのは男子であった。

 寅年の生まれであったことから、名を「虎千代」と名付けられる。

 のちの上杉謙信である。

 しかし、父・為景は、その子にほとんど興味を示さなかった。

 すでに三人の男子がいたため、虎千代の存在は、彼にとって家督争いの火種にしか映らなかった。

 しかも、虎千代は庶子。正室の子ではない。

「……虎千代は、不義の子ではないか」

 そう呟いたと伝えられる。

 不義の子。つまり、不倫か密通の子を意味する。

 為景はその出生に疑念を抱き、情を注ぐこともなかった。

 そして間もなく、虎千代は寺へと入れられる。

 父の手から離され、僧として育てられることが決まったのである。

 幼子には何の罪もない。

 だが、戦国という荒波の中では、血の純粋さも、正義も、意味を持たない。

 それが、この時代に生まれた「越後の龍」の、最初の運命であった。

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