第69話 帰還①
小田原城を発って半日。日が中天に差しかかる頃、ようやく一行は相模国を抜け、武蔵国へと入った。
この調子で進めば、今夜は武蔵国内で宿を取ることになるだろう。道中は比較的穏やかで、農夫たちが畑を耕す姿や、薪を背負って行き交う村人たちの姿が見える。遠くには山並みが薄青く霞み、どこかのどかな風景が広がっていた。
その中でただ一人、上杉謙信が馬上から周囲を鋭く見回していた。
「殿、一体何を見ておられるのですか?」
隣で馬を進めていた与六が、興味を持って尋ねていた。
「ああ……。ここを戦場と見立てていたところだ」
「殿!?」
「冗談だ」
「冗談には見えません!!」
与六の慌てぶりに、謙信はふっと笑みを漏らした。昨日、虎が言っていたが、与六で遊ぶと大変面白いというのは同意しそうだ。
与六にはその笑った目の奥には、笑いとは裏腹に別の思惑が潜んでいるようにも見えた。与六は眉をひそめ、謙信の胸中を図りかねる。
そんな二人のやり取りを聞きつけて、さらに隣を進む柿崎景家が口を開いた。
「……殿、やはり虎姫様のことがご心配なのでしょうな」
「ああ。虎は気丈に振る舞ってはいたが……やはり心配でならぬ」
謙信の声には、父親としての情が隠しきれずに滲んでいた。確かに虎の姿は頼もしかった。堂々と北条の前に立ち、年齢に似つかわしくない言葉を放つ娘の姿は、謙信の胸を打つものがあった。だが同時に、まだ幼いその身を北条に残してきたことが、不安を募らせずにはいられなかった。
「やはり、あれを氏康に盗られるのが気に食わん」
「殿、ほんの数日のことにござりまする」
「嫌じゃ!」
頑として譲らぬ言葉に、景家は思わずため息をついた。
また謙信の子煩悩が始まった。
虎の前では父としての思いをある程度抑えていた。それでも心配は隠しきれていない。こうして帰途につけば、謙信の心中はきっと虎のことばかりで占められてしまうだろう。
「殿」
今度は与六が声をかける。
「虎姫様には信綱殿も千代丸殿もついております。万一あれば、あの二人が命をかけてお守りするでしょう」
「わかっておる……わかってはおるのだ」
謙信は視線を前に向けたまま、低く吐き出すように答える。わかっていながらも、心配せずにはいられない。血を分けた娘を敵地に残してきたのだ。理屈で納得できても、父としての情がそれを許さない。
「それに、虎姫様は見た目こそ幼くとも、考えは誰よりも大人びております」
「……だからこそだ。大人びておるからこそ危ういのだ」
謙信の言葉に、与六も景家も一瞬黙り込んだ。虎の才覚が目覚ましいことは、彼らも十分承知している。だがそれが北条の目にどう映るのか。そして、あの氏康にどう受け止められているのか。確かに不安は尽きなかった。
「殿」
景家が真剣な声で続ける。
「氏康殿は強敵でありまするが、虎姫様を害するような真似は決してなさらぬと存じます。むしろ……氏康殿は、虎姫様を気に入っておられるのでは?」
「気に入られるなど、なおさら気に食わん!」
謙信は顔をしかめ、馬の手綱を強く引いた。
与六と景家は思わず顔を見合わせ、苦笑を浮かべる。
一行はその後もしばらく馬を進めながら、時折戦の話題や領内の情勢を語り合った。だが謙信の心は終始落ち着かず、言葉の端々に虎への想いが滲み出ていた。
武蔵の宿場に着くまでには、まだ時間がかかる。越後まではなお遠い。
謙信の胸中では、戦場の地図よりも、虎の笑顔が鮮やかに浮かんでいた。
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