第68話 北条氏政⑤
「虎姫殿は、同年代の子らと比べてずいぶんと大人しいですね」
氏政の言葉に、わたしは思わず苦笑いを浮かべた。まさか「実は中身は現代日本の、普通の大人の女性です」などと告げられるわけもない。
「そうですか?」
と、わざと肩をすくめるようにして笑みを作り、ごまかす。
「ええ。それに、あの父上を“あっ”と言わせたのですから。私にも同じくらいの子がいますが、飯のことしか考えておりませぬ。虎姫どののように“民のこと”など一切頭にございません」
「ふふっ。それは、この小田原の食べ物が美味しいからではありませんか?」
「そうですか?」
「ええ。この関東は豊かな大地ですし、米も作物も豊富です。それに、海の幸にも恵まれております。それを喜ぶのは自然なことです」
そう答えると、氏政は一度うなずいてから、少し真顔を見せた。
「しかし、豊かとはいえ、雨が多く降る年もあれば、日照りが続くこともある。そのたびに飢饉の危機に怯えるのです。……越後では、いかがですか?」
「越後はご存じの通り、冬に雪が多く降ります。冬はほとんど作物がとれません」
わたしは淡々と答えながらも、心の中で付け加えた。この時代の気候は小氷期にあたり、相模……今の神奈川県あたりですら雪が珍しくない。積雪の問題は、どこの国も抱える共通の課題なのだ。
「越後も大きな国ではありますが、寒冷は厳しい。作物が思うように育たないことも多うございます」
「なるほど……国は違えど、抱える苦しみは同じということですね」
氏政が静かに言葉を結ぶ。その声音に、わたしは一瞬だけ父・謙信の姿を重ねた。為政者として民を思うその眼差しには、確かに父の影があった。だが同時に、どこか危うさもある。氏康に比べれば軽やかで、優しさを隠そうとしない。それが強みでもあり、脆さにもなるのかもしれない。
とはいえ、これ以上、食事の場で政治の話を深めたくはなかった。わたしはあえて話題を変えた。
「にしても、この小田原城は噂に違わぬ荘厳さですね」
わたしは膳に視線を落としながらも、ここへ来る前の小田原城を思い描いた。小田原城は平城であり、本来なら攻めやすいはずの構造だ。だが実際に目にしてみれば、不思議とそうは思えなかった。石垣の高さ、曲輪の配置、そして海と山を同時に背にした地の利。春日山城を隅々まで見てきたわたしでも、この城の堅牢さには強い興味を抱かざるを得なかった。未来を知るわたしにとって、小田原城は後世に名を残す名城。だが、今目の前にあるその姿は、むしろ未来よりも大きく、雄大に見えた。
わたしの言葉に、氏政は目を細め、にこやかな笑みを浮かべる。
「そう申していただけると嬉しい限りです。……虎姫どの、よければこの小田原城を共に巡ってみませんか?」
その誘いは、柔らかな笑顔とともに放たれた。だが、その奥にどんな思惑が潜んでいるのかまでは読みきれない。
氏政の提案に、背後で控えていた千代丸と信綱が小さく身じろぎした気配が伝わってきた。二人の緊張がひしひしと感じられる。だが、わたしはそれに気が付かなかったフリをして、正面に座る氏政の表情をまっすぐに見据えた。
父上がいない今、わたし自身の振る舞いこそが上杉と北条を繋ぐ絆となる。
胸の奥でそう呟きながら、わたしは小さくうなずいた。
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