第70話 帰還②

 上杉謙信があと数日で春日山城に戻る。その報せに、城中の多くは顔をほころばせた。主君の帰還を喜ばぬ者など、まずいない。とりわけ安堵を隠さなかったのは、一門衆である。

 1人目は甥にして娘婿、そして事実上の後継と目される上杉景勝である。

 彼は城代を任され、政務を取り仕切っていたが、独立心の強い家臣たちをまとめるのは容易ではなかった。謙信のような軍才と威光で人心を掌握することはまだできない。だが景勝は愚直に家臣の声を聞き、謙信の指示や、さらには許嫁で従妹にあたる虎の助言をも受け止め、自らの言葉として家中に示した。若さゆえ軽んじられがちであったが、その姿勢は少しずつ家臣たちを奮い立たせ、重臣の目には後継者としての器を備えつつあるように映っていた。

 2人目は謙信の養子であり、北条氏康の子にして姪を娶った上杉景虎である。彼は城代の任にはなく、景勝の補佐役とされた。しかし外様の立場ゆえ、旧敵の子として一部からは疎まれた。景虎はそれを承知で、家臣たちの愚痴を辛抱強く聞き、清廉な振る舞いに徹した。その姿勢は徐々に信頼を集めつつあり、景勝との不仲を噂する声が広がっても、裏ではむしろ景勝と密に連携していた。表向きの噂とは裏腹に、ふたりの絆は確かであり、その背後には幼き虎の存在も関わっている。だが、軽々しく口にできる事実ではなく、知るのはごく一部の一門衆に限られていた。

 三人目は、謙信の実姉にして景勝の母、景虎の義母である仙洞院である。彼女は、妻を持たぬ謙信に代わり、奥向きを取り仕切ってきた。軽んじられがちな役目ではあるが、家政を掌握することは国力に直結する。仙洞院はその責を果たす才覚を備え、人々の心を見抜き、寄り添うことで家中を陰から支えた。謙信の唯一の子である虎がまだ幼いことを案じつつも、いずれはこの役を担わせねばならぬと考えていた。

 しかし彼女にも悩みは尽きぬ。謙信の後継者問題である。

 大方の重臣たちは景勝を跡取りと認め、公においてもその立場は確立しつつある。だが、必ずしもすべてが同意しているわけではない。上杉家は良くも悪くも我の強い家臣団であり、自らの思惑で勝手に動く者もいる。景虎と景勝、そのどちらも謙信にとっては大切な養子である。だからこそ一方に肩入れすれば、かえって火種となる。証拠もないまま粛清などすれば、かえって内乱を招きかねぬ。仙洞院はその難しさを理解し、奥を仕切る立場からできる限り両者の橋渡しに努めていた。

 景勝と景虎は仲が悪いのではない。仙洞院だけはその事実をよく知っていた。だが、家中の多くはいまだそれを理解しようとせず、後継者をめぐる不安は絶えず燻っていた。

 謙信が戻る。

 それだけで春日山城は、ひとときの安堵に包まれていた。だが、その背後に横たわる不安は、決して消え去ったわけではなかった。

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