第65話 北条氏政②
侍女が運んできた朝餉が、わたしの目の前に置かれた。質素ながら彩りよく整えられた膳である。同じものが、正面に座る男の前にも運ばれる。
「虎姫殿、その量……いささか少なくはありませぬか? 台所へ申しつければ、いくらでも増やさせられますが」
男は穏やかな声音で、しかし気遣うように問いかけてきた。
「いえ、わたしはこれで十分です」
わたしが首を振ると、彼は箸を手に取りながらじっとこちらを見つめる。
「そうですか。……虎姫殿は、同世代の子らと比べて召し上がる量が少ないように見えます。どこか体に御障りでも?」
問いは柔らかくも真剣で、ただの世辞ではないと感じられた。わたしは一瞬言葉を探したが、すぐに小さく笑みを作って答えた。
「いえ、特にはございません。どうかお気になさらず」
にこりと笑ってごまかす。これ以上踏み込まれては困る、とも思った。彼の眼差しは穏やかで、気の優しい表情をしているが、目の奥には鋭いものが見えた。
そう、目の前にいる男こそ、北条家四代目当主・北条氏政その人である。
北条氏政。父は「相模の獅子」と言われた北条氏康、母は今川義元の妹の瑞渓院。
氏康は荒っぽく、どこか一国の大名というより野盗の頭領のほうが似合いそうな顔つきをしている。だが実際には、その心根は驚くほどに優しい。武断の世にあっても領民に寄り添い、彼らを守ろうとした大名は稀であり、わたしにはこの時代における「正解」に最も近い為政者の一人だと感じられた。
それに比べると、いや、本来なら父と子を見比べること自体、失礼にあたるのかもしれない。けれど、どうしても違いは明瞭に見えた。氏政は氏康と比べると、表情も口調もいくぶん軽やかだ。人当たりがよく、柔らかい雰囲気を纏っている。もちろん氏康の血を引く者らしく、その眼差しの奥には鋭さが潜んでいるのだろう。だが、それは到底父には及ばぬもの。わたしにはそう思えてならなかった。氏康と比べたら氏政は本当に何か欠けているような気がした。
ふと、昔読んだ記事の一節を思い出す。
「氏政は暗君」
少なくともその記事ではそう評されていた。その言葉の真意がどこにあるのかはわからない。確かに、歴史を俯瞰すれば氏政が原因で北条家は滅びる。そう考えれば「暗君」という烙印を押すのは簡単だ。けれど、すべての責を彼ひとりに負わせるのは、いささか乱暴にも思える。
戦国の世とは、為政者の力量だけでなく、その時々の「空気」と「運」に大きく左右されるものだ。どれほど正しく空気を読んでいようとも、時にそれを活かせぬ状況に追い込まれることもある。北条家の末路もまた、そうした運命の奔流に呑み込まれた結果にすぎぬのかもしれない。そう考えると、氏政が本当に「暗君」だったのかどうか。わたしには、どうしても疑わしく思えたのだった。
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