第64話 北条氏政①
父上を見送ったのち、部屋で朝餉を取ろうとしていたときのことだった。
「え? 氏政殿が一緒に食事をとりたいと?」
思わず聞き返すと、部屋の前に控えていた信綱と千代丸が、平伏したまま落ち着いた声で答えた。
「はい。そのように仰せでございます。如何なさいますか?」
驚きだった。今この時、なんと北条家当主の北条氏政が部屋の前におり、自らともに食事をしたいと申し出ているのだ。理由はわからないが、断る理由も見当たらない。
「……そう。なら、承るわ」
わたしは軽く息を整えると、隣に控えていた千代丸へ視線を向けた。
「千代丸、氏政殿に承諾の旨を伝えて。それと、どちらで食事をとるのか伺ってちょうだい」
「……」
だが、普通ならすぐに動くはずの千代丸が、なぜかその場から動こうとしない。
「千代丸? どうかしたの?」
怪訝に思って問いかけると、代わりに信綱が控えめに答えた。
「実は……氏政殿がこちらのお部屋で食事を取りたいと仰せでして」
「えっ!? この部屋で!?」
思わず声を上げてしまった。まさか大名たる北条家当主が、客人である自分の部屋に足を運び、そこで食事を共にしようと考えているとは。
「ち、千代丸、氏政殿に少しの間待っていただけないか聞いてくれない?」
「かしこまりました」
千代丸が部屋を出ていくのを見てそばにいた乳母のお苗と信綱に話しかけた。
「少し部屋を片しましょう」
「了解しました」
わたしは膝を揃え、深く息を吐いた。北条家の当主が自ら客人の部屋に足を運ぶなど、尋常なことではない。胸の鼓動が早まり、緊張を抑えるために両手を膝の上で固く握った。だが同時に、父上が去ってしまったあと初めて訪れた「試される時」かもしれない、とも感じていた。ここでどんな振る舞いを見せるかで、北条家がわたしをどう扱うかが決まる――そう思うと、背筋が自然と伸びていった。
お苗が几帳の布を直す手を止め、ちらりとこちらを見た。
「姫様。肩の力を抜かれませ。……氏政殿は、きっと穏やかに話をなさりたいだけにございます」
慰めの言葉にわたしは小さく頷いた。だが心の奥では、やはり不安が消えなかった。氏康のように豪胆で掴みどころのない人間ならまだしも、北条家の実権を握る氏政がわたしに何を求めているのか。例え、わたしが幼いとしてもその一言一言が、上杉と北条の関係を左右することだってあり得る。
その時、廊下から千代丸の足音が戻ってきた。どうやら支度の時間は、もう残されていないらしい。
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