第63話 父上②

 翌日の早朝。まだ、日の昇らぬうちに、父上は兵や柿崎景家、与六らを率いて城を発った。

 馬に跨がろうとする父上へ、思わず声をかける。

「父上……どうか道中、お気をつけください」

 父上は足を止め、こちらを振り返った。眼差しは厳しいが、その奥には寂しさが潜んでいるように見えた。

「虎こそ、決して気を抜くなよ。……お前はわしの大事な娘だ。そこを忘れるでないぞ」

「はい」

 わたしが素直に返事をすると、馬を引いてきた与六が口を開いた。

「正直なところ……虎姫様をここに残すのは、とても不安でございます」

 ――まあ、そうだろう。わたしは一時的とはいえ人質のようなものだ。父上にとっても、与六にとっても心配の種であるのは当然だった。

「大丈夫だよ、与六。早く景勝のところに戻ってあげて」

「……ええ、そうですね。あの方も、きっと姫様の無事を案じておられるでしょう」

 与六は短く息をつき、それからわたしの隣に立つ千代丸と信綱に歩み寄った。二人はわたしと共に小田原に残り、翌日春日山へ帰る予定だ。

「千代丸、信綱。――決して虎姫様の手綱は離すなよ」

「え? 手綱?」

 思わず聞き返した。与六の懸念が、わたしの想像とまるで違っていたからだ。

「わかっている。虎姫様の手綱は絶対に離さない」

「私も……できる限り心がける」

 二人の真面目な返答に、胸の奥がむず痒くなる。どうやら「わたしが勝手に動いてしまう」ことを心配しているのだと気づき、頬が熱くなった。

「ねえ、三人とも! ひどくない?」

 わたしが抗議すると、与六は肩をすくめて苦笑し、こう言った。

「――酷いと感じるなら、日頃の言動を省みてください」

 その場に小さな笑いが広がり、出立前の張り詰めた空気が和らいだ。だが、笑いが消えればすぐに寂しさが胸を満たす。

「虎。覚えておけ。お前が北条に残るのは一日だけだ。それでも一日あれば、人は心を動かされる。……油断するな」

「はい、父上」

 短いやり取りだったが、その言葉には幾重もの想いが込められていた。

 やがて父上が馬に跨がり、兵たちが動き出す。柿崎や与六たちが次々とわたしに一礼し、城門を抜けていった。旗指物がゆらゆらと遠ざかり、やがて夕暮れの靄に飲み込まれていく。

 残されたわたしは、脇差の柄をぎゅっと握りしめた。胸の奥が寂しさでいっぱいになりながらも、同時に――今日一日、この城で自分の役目を果たさねばならないのだと心に言い聞かせた。

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