第5話 防空壕
ズヴェーリは鬼気迫る勢いで狭い道を走り、後を追ってくる。このズヴェーリはまるでイエティのように全身が毛に覆われていて、暗闇の中で光る2つの目は、獲物を狙う狩人の目からしていた。口から血を垂らしながら
追いつかれれば、一巻の終わりだ。
プラーミャの炎で照らせる範囲は狭く、ほとんど暗闇の中を走った。逃げる途中で知らず知らずになん度も虫を踏みつけた。
明らかに虫ではない腐敗したなにかも踏みつけた。だがその得体の知れないなにかに不気味さを覚える間もなく、ただひたすら走りつづけた。
背後からは、苛立つ
壁一面にサソリがかたまり道が塞がれていた。
「うせろ虫けらども! プラーミャ、焼き殺せ!」
一瞬にして焼かれたサソリたちは、複数匹が燃えあがり仰向けになった。足をジタバタさせる気持ち悪い姿にも、今はなにとも思わない。
道は開けた。だがこのわずか数秒の足止めにより、ズヴェーリに追いつかれてしまった。
秀二は自身の背中に熱い息がかかるのを感じた。それを感じてから
頭上を見上げると、数秒前まで体があった場所を、鋭い鉤爪を生やした腕が貫いていた。
逃げきれない。そう悟った秀二は叫んだ。
「プラーミャ、こいつを
狭い洞窟の道、自由に動きまわれないプラーミャは不利だ。しかし敵もまた狭い洞窟内に収まる体格ではなく、プラーミャはジリ貧ではない。
これは勝敗を賭けた闘獣の闘いではない。秀二は生まれて初めて、命をかけた戦いを始めた。
双方のズヴェーリは威嚇の鳴き声を張りあげた。
プラーミャの甲高い威嚇は反響し、不協和音のような耳障りな音となった。敵は確かに怯んでいる。その一瞬を突いた。
「今だ、噛みつけ!」
不意を突かれた敵は対応できず、プラーミャその神速で
敵は頭から血を流し倒れこむも、その殺気だった目は秀二から離れることはなかった。
プラーミャの本気の噛み砕きにより、敵の頭蓋骨には少なくともヒビが入っているはずだ。にも関わらず獲物を捕食しようという生命力を見せつけるその目に、秀二は心が折れた。
「逃げるぞ! ここで
やっとの思いで落ちてきた穴の元へ戻った秀二は、その上で待っていた島津が垂らした麻の縄に掴まった。
「気張れ! 秀二!」
「た、助かった……!」
登っていくあいだ、少しずつだが確かに近づいてくる足音に怯えた。不安で過呼吸寸前になりながらもなんとか登りきった。
登りきって洞窟の下を覗いた。するとそこには、こちらをまっすぐと見つめる、1匹のズヴェーリの姿があった。
頭から血を流しながらも微動だにせず、つぶらな目で、じっとこちらを見つめていた。
数秒遅れていたら命はなかったと、そう感じた。
小屋に戻ると、そこに小屋はなかった。焼け焦げ、建物は原型を留めていないほど破壊されていた。白い煙が立ちのぼり、雨で鎮火されたことがわかった。
シェルターを降り2人と再会して初めて、危機が去ったことを感じた。
「ラジオの災害情報ではオゼロ・アインスコエでのみ突然の雷雨だと……」
クビを傾げながら島津はそう言っていた。そんな姿を横目に、秀二はすでに乾いた服に着替えた。
それから、みるみる内に雷雨は去っていった。ひょっこりと姿を現した雷雨は、湖の周りの森林を薙ぎたおして去っていった。
「よくあの防空壕に落ちて、怪我1つ負わんかったな」
「プラーミャ……俺のズヴェーリが守ってくれたから」
「ペットかと思っていたが、もしや秀二は闘獣士か?」
「うん。ねぇ、あの洞窟の側に防空壕って書いてあった。あれ、弥纏の言葉だよね。来知志湖って別名もあるし、あれも戦争の名残?」
「じゃっど。ルーシは弥纏と島ば南北で2分すっと同時に、互いに領土ば荒らさんごと約束する中立条約ば結んだでごわす。じゃっどん、ルーシは一方的にそいば破棄し侵略。本国に帰れなかった弥纏人は防空壕に隠れたとでごわす」
勘が当たったようだ。途中で見かけた白骨化した骨は、もしかしたら戦争の犠牲者だったのかもしれない。
「島津さんも弥纏系の名前だよね」
「じゃっじゃ。こん島ん悲劇については祖父母から伝え聞いちょっど。秀二も弥纏系の名前じゃっどん、妙に肌の白か。顔ん堀も深かし、ルーシとの混血か?」
「俺にルーシの血は入ってないよ。両親はどっちも弥纏系だ。特にお父さんは元々は弥纏で国の事業に関わってたスゴい人なんだよ!」
秀二の父、安之助は南カラハリンのナチナ町出身だが、同地が弥纏領時代に祖父母が作った繋がりから弥纏の国家事業であった「南極調査」に参加し、活躍した人物だった。
「そうかぁ。お父様はルーシ生まれの弥纏系ということなのだな」
島津がそう言うと、ユーリはなにか言いたげだった。
人種の違いというセンシティブな話題を制止しなければ、またしても自分が嫌な顔をすると思ったのだろう、と秀二は感じた。
別れ際、島津はこう言葉をかけた。
「小うるさかおじさんからのお節介だ。良かか秀二。年上には敬語ば使いなさい。穴ん落ちて危機的状況に置かれたら敬語んなったじゃっど、一難去ればまたタメ口に戻っちょっどが」
「あ……ははは」
「闘獣の世界ではそがん図太か神経の
そう言うと島津は微笑んで去っていった。悪意ではなく、自分のためを思ってくれているが故の言葉であることは、秀二には分かった。
8月に入り、夏休みも残り1ヶ月となった。ルーシ連邦国の夏休みは、6月から9月までの3ヶ月間あるのだ。
しかし学校の宿題もその分多くなるので、大して喜ばしいことではない。例年ならば秀二らは夏休みの終わり際に、必死で宿題と向きあい、なんとか終わらせようとするのだ。
だが今年はなんとしてもナチナ町を出なくてはならなかったので、旅に出るまでの1ヶ月間でユーリに指南されながら終わらせた。本気を出せばできないことなどないのだ。
ユジノハラ市で名産品のイクラ(Икра)を楽しんで、それから彼らはカイ市へ向かった。新幹線の中、秀二はイクラの食べすぎにより腹を下し、トイレに籠った。
残されたユーリとアイナの2人の会話は、昔話になっていた。それは3年前に3人が初めて、一同に会した日の出来事だった。
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