第43話 空想の星が降る夜空の下で 5
ぬらりひょんが地面に叩きつけられる。土が口に入るし、羽織の背中も土まみれだろう。屈辱と驚愕で舌打ちをする。
「く、そが……! たかが人間が、こんな……!」
有り得ない。有り得ないことが、起きている。日本妖怪の総大将は、ただ一人の女子高生相手に死の危険を感じていた。
あの少女の眼の赤い光は、『心眼』が発現した証だ。
心眼。
武に特化した人間にだけまれに発現する異能、中でも最凶のものである。全てを見通す、一〇〇年以上持ち主がいなかった魔眼だ。
「嘘だろおい! 戦国ならまだしも
確認が必要だ。ぬらりひょんは『実体のある分身』を五〇ほど、ただの分身を同じ数作り出す。
「無駄だよ」
少女は、巨大な刀を振り回し、実体だろうが分身だろうが構わず斬り捨てる。
「が、ぁッ!」
褐色の青年が血を吐く。分身に傷がつけば本体に還る。かさかさに乾いた、血の味がする唇を噛む。
侮っていた。侮ることができているうちに、さっさと息の根を止めるべきだった。ぬらりひょんは、自分の選択を心の底から後悔している。
すとん、と少女が地面に降りた。すたすたと普通に歩いて迫ってくる。ぬらりひょんにとってはその小柄な姿が、死神よりも恐ろしく見えた。
この少女は、自分の天敵だ。幻、まがいもの、曖昧なもの、見方によっていくらでも形を変えるもの。
すなわち、現実。自分の本質を全て見破る眼を少女が身につけてしまう前に、殺すべきだった!
だが、青年とて伊達や酔狂で日本妖怪の総大将をやっているわけではない。
「くく、くくく……面白ェ、面白ェ。これだから、
どれくらいぶりの修羅場だろうか。にやり、と青年は笑う。背筋が、恐怖ではなく興奮でぞくぞくと粟立つ。
ぬらりひょんは、高揚を隠せずにいる。すなわち、本気で死合える相手の出現。日本妖怪の総大将は、居住まいを正す。全霊の敬意と本気をもって、この天敵を殺す。
「嬢ちゃん。名前はなんて言うんだ」
「鬼切ざくろ」
「そうか、良い名前だ。覚えておく。決着をつけようぜ、鬼切ざくろ」
全ての分身と鬼火を消し、ぬらりひょんは鬼切ざくろと向かい合う。ぬらりくらりと掴み所がない、それが自分の存在の軸だ。ぬらりひょんと呼ばれる理由だ。だが、目の前にいる鬼切ざくろという名の敵を殺すため、全ての能力を肉弾戦に割り振る。
これから殺しあう天敵への殺意と敬意を込めて、名乗る。
「名乗らせてもらうぜ――俺ァぬらりひょん。日本妖怪の総大将、ぬらりひょんだ」
鬼切ざくろが、無言で刀を構える。びりびり、身体が痺れる感覚。人間相手の戦いでこれほどに高揚するのは、いつ以来だろう。安倍晴明とかいう若造と、京都で戦ったとき以来か。
今から始まるのは、一方的な嬲り殺しではない。対等な、殺し合いだ。
「正々堂々、いざ尋常に――勝負」
ぬらりひょんは地面を蹴る。本気で拳を使うのはいつぶりだろうか。
勝つには、ただ速く、ただ強く。単純で、実にいい。限界まで加速した手のひらが音速の壁を超える。この少女を、全力で殺す!
「はあぁぁあぁぁ――ッ!」
鬼切ざくろが吠えて、刀を振り下ろす。皮一枚で自分には届かない。自然と顔が笑う。
「ぬおぉぉぉおぉぉぉお、おぉぉおぉぉおぉぉ――! おらぁぁあぁぁぁぁッ!」
ぬらりひょんの掌底が、少女の身体を貫く。信じられないほど細く薄い身体を筋骨隆々の手が貫く。勢いを止めず突進したぬらりひょんの手のひらが、鬼切ざくろをブロック塀に
★
ごぱっ、と鬼切ざくろが血を吐いた。みぞおちのあたりを、ぬらりひょんの太い腕で貫かれている。普通なら助からない傷だ。
「く、くはははははははははは――やった! 水木区の守護者を、始末した――!」
勝利を確信した青年が、高らかに笑う。
「これで、日本妖怪は再び畏れ、敬われる! 日本中、いや世界中、終わらない春の宴、百鬼夜行の始まりだ! はははは、はははははははァ! ははははは――ははは――は?」
有頂天になって笑うぬらりひょんが、唐突に笑うのをやめた。
「――ふふ、うふふふふ、ふふふ……げ、ゴホッ。ふふふ!」
今まさにトドメを刺したはずの鬼切ざくろが、笑い出したからだ。
「なんだァ? 頭でもいかれたか、鬼切ざくろ? 俺の勝ちだぞ、わかってんだろ? 妖怪にして命繋いでやってもいいが――あ、がッ!?」
彼女は、ぬらりひょんの首筋に思い切り齧り付いた。鋭い犬歯が刺さったところから、血が滴る。不吉な予感に襲われたのだろう、ぬらりひょんが鬼切ざくろの身体から腕を抜こうとする。
だが、抜けない。ぬらりひょんの表情が驚愕で歪む。彼女は筋肉の収縮で、ぬらりひょんを捕らえている。
少女は、この状況を待っていた。自分だけを最大限に警戒させ、曖昧な存在であるぬらりひょんを実体として引きずり出すためだけに、腹に大穴を開けさせた。
俺の目にも見える。今、こいつはこれ以上ないほど強固に世界と繋がっている。
ぬらりひょんの。『世界との繋ぎ目』が、これ以上ないほど濃くなっている。
つまり俺の、黒羽聖司の攻撃が届く。
俺も、この瞬間を待っていた。ざくろさんだけに注意を惹きつけ、俺がトドメを刺す。単純だが、有効な作戦だ。
ぬらりひょんの背後に、俺は立っている。
右腕に装着した『
ざくろさんが笑って舌をべぇ、と出す。
俺は左手の親指を下に向ける。
「正々堂々、いざ尋常に殺しにきてやったぞ。くたばりさらせ、クソ野郎が」
白い杭が、日本妖怪の総大将の脳天をゼロ距離でブチ抜いた。
★
膝をついて身体の半分が黒い塵に還りかけたぬらりひょんが、俺の目の前で愉快そうに笑っている。俺は武器を突きつけたまま、動かない。
「くっ、そ……こういう策か……! まんまとしてやられたぜ……! 人間に出し抜かれるなんてよ……! くそ、はは、最高だ! おいガキンチョ、お前、大したもんだ。名前はなんていう」
「黒羽聖司、だ」
問われるままに答える。相手は日本妖怪の総大将だ、油断はできないが敬意は払う。
「そうかい、聖司。お前も良い名前だ。だから、勝負は預けておいてやる!」
「!?」
ぬらりひょんの懐が光り、銀色の袋がこぼれ落ちる。中から、ひとりでにヒトガタの紙が出てきた。こいつ、まだなにか仕掛けてくる気か!? 俺はざくろさんを背にしてかばう。
ヒトガタが一体から二体、二体から四体、四体から十六体と、視界を覆い尽くすほど増える。
「くそ、なんだ!?」
「認めてやる、今回はお前らの勝ちだ! あばよォ! 黒羽聖司、鬼切ざくろ! 久しぶりに楽しかった! 春の宴としちゃ、上等な幕切れだ! かかか、またやろうぜ!」
袋の銀色の糸、よく見ると髪の毛らしきものがぶわりと広がって、ヒトガタの中にいるぬらりひょんを包みこみ、かっ! と閃光が走る。目がくらみ、数十秒して視界が戻ったときには、ぬらりひょんもヒトガタも、跡形もなく消えていた。
「……勝った、終わった、のか……?」
緊張の糸が切れて、俺はその場に崩れ落ちそうになったがぎりぎりで踏ん張る。
「ざくろさん!」
ブロック塀に身体を預けてなんとか立っていた彼女に、俺は駆け寄った。
「せいじ、わたし……がんばった、よ。いつもみたいに、撫でて、くれる……?」
彼女の腹には、大きな穴がぽっかりと開いて、とめどなく血が出ている。失血で虚ろになった眼で、ざくろさんはへにゃりと笑った。
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