第七章 少年は自覚し、少女はまだ知らない

第27話 少年は自覚し、少女はまだ知らない 1

 時刻はいつもの夜、四月も終わりに近い二二時前。俺は寝る準備を終えてパジャマに着替え、ベッドに腰かけている。特に悩みや考え事があるとか、そういうわけではない。待っているのだ。


 こんこん、控えめなノックの音がした。どうぞと答えて、そのまま待つ。

 しばらく、迷っているような間をおいて、ドアが開く。


「……聖司。あの、今日もいい?」


 鬼切ざくろが、恐る恐るといった様子で部屋に入ってきた。俺の文字Tシャツをワンピースのように着て、下にはなにもはいていないしつけていない。


 くねくねと戦ってから、彼女は毎晩俺の部屋に来るようになった。


 空想怪異と戦う責任と、恐怖。それに痛みが、俺に助けられたことによって溢れてしまったのだ。彼女は、俺に弱味を見せてくれるようになっていた。


「いいよ。おいで、ざくろさん」


「……うん」


 俺は両腕を広げる。彼女は、思い切り俺の身体に抱きついた。


「うぅぅ、うぇぇ、うぅぅっ、うあぁぁん」


 ざくろさんが、俺の布団に入って、俺の腕の中にすっぽり収まって泣いている。


「怖い?」


「こわ、ぅ、こわい、ずっと、こわい……こわかったし、いたいし、つらい……」


「うん。頑張ったね」


 俺は泣きじゃくる彼女の頭を撫でる。さらさらの髪から、トリートメントの香りがする。


「わ、たし。いつか、聖司を殺しちゃうんじゃ、ないかって。わたしはどうでもいいの。元から、戦うしかできないもん。でも、聖司を巻き込んじゃった……ごめん、ごめんなさい……」


「いいんだよ」


 ざくろさんの小さい身体をきつく抱きしめる。俺を傷つけたことで自分を責めているのだろう。俺に触れないと、怖くて仕方がなくなってしまったらしい。

 朝には何事もなかったかのように、起きて学校へ行く。彼女は重圧に、使命感だけで耐え続けてきた。

 きっと、ずっと溜め込んでいたのだろう。


 素直だったんじゃない。使命しか与えられなかったから、縋るものが他になかったんだ。


「俺は自分から、きみを助けたくてこうしてるんだ。俺はずっといなくならない、ざくろさんを独りぼっちになんて、もう絶対にしない。……ずっと一緒だ。それに、もう俺がいないと泣けないし、ぐっすり寝られないだろ?」


 ひっぐひっぐとしゃくりあげる彼女が、涙声で返事をする。


「うん……聖司が、いないと……わたし、もう泣けない。寝られない。わたし、こんなに弱かった。可愛いとか綺麗とか言われるのも、どうでもよかったのに……聖司にだけは、言われると嬉しい。知らなかった、こんなの。こんな守護者で、嫌にならない? 嫌いに、ならない?」


「嫌なもんか。ざくろさんを抱いて寝るなんて、俺じゃあなきゃ嫌だ。俺がしたくてしてるんだ。だから、遠慮も我慢もしなくていいんだよ。……好きなだけ泣いて、寝るといい」


「……そっか。えへへ、よかったぁ……わたしも、こんなこと、聖司じゃなきゃ、やだ……おねがい、どこにも、いかないで……聖司が、いないと、さみしいよぉ……」


 涙の跡を頬につけたまま、彼女はゆっくりとまぶたを閉じてすやすやと寝息を立て始める。俺は、ざくろさんが深く寝入るまで抱きしめて、頭を撫で続けていた。


 鬼切ざくろは、眠りが浅い。いつでも空想怪異てきと戦えるようにということだろう。どれだけ深く眠っていても、俺がトイレにでも行けばたちまち飛び起きて、俺がいないと泣き出してしまう。だから、最近は寝る前の水分を控えめにするようにしていた。


 俺の腕の中にすっぽり収まる小さな身体。影が落ちるほど長い睫毛。小さな顔に白い肌、愛らしい寝顔。どこをとっても普通の女の子のはずなのに、彼女は重圧を背負いすぎている。この子が、俺が抱きしめて撫でてやらなければ泣けないほど追い詰められていた少女が、せめて安心して朝まで眠れるように。


 祈りながら。俺は毎晩ざくろさんを抱きしめる。抱きしめて、一定のリズムで背中を軽く叩く。頭もそっと撫で続け、落ち着くように胸と胸を合わせる。心臓の鼓動は落ち着くと聞いたことがあった。元々はひとつ、今はふたつの心臓が、静かな鼓動を響かせる。


 俺も眠たくなってきた。ざくろさんの寝顔、可愛いなあ。


『お前が鬼切ざくろを助けるのは、下心があるからだ』


 眠りに入りかけた俺の顔を覗きこんで、『葬儀屋』が話しかけてくる。


 違う。確かに思うところがないわけじゃあないが、俺は彼女を大切にしたい。


『まだわからねえのかよ、童貞チェリー。とっとと手を出せ、鬼切ざくろは簡単にお前のものになるぞ?』


『葬儀屋』の言い分ももっともだ。俺が手を出しても、彼女は抵抗せず受け容れるだろう。


 あくまで、俺はざくろさんを助けたいだけだ。ここまで俺を信頼するのも、刷り込みのようなものだろう。雛鳥が最初に見たものを親だと思ってついていく習性。そんなものを利用したくない。俺は、ざくろさんに幸せになってほしい。


 いや、待てよ。幸せになってほしい? 俺以外の誰かと手を繋ぎ、こうして一緒に寝る彼女を想像しようとして、ずきりと胸が痛む。


 嫌だ、そんなのは。





 ざくろさんの隣にいるのも、一緒に戦うのも、こうして抱いて寝るのも。全部全部全部、俺じゃあないと嫌だ。


 他の誰かなんて認めたくない、認めない!


「……これ、って――嘘だろ、待て。落ち着け、俺は、俺は」


 顔が熱い。心臓が跳ねる。眠るざくろさんを抱きしめた手が震える。いい匂いがする。トリートメントだけじゃあない、甘い匂い。触れている身体中、全部柔らかい。今更、胸に押し当てられた二つのふくらみを意識する。


「俺、俺は……ざくろさんの、ことが……好き……? なのか? 待て、どういうことだ?」


『やっと気づいたか、この朴念仁で理屈馬鹿で、むっつりスケベの阿呆が』


 頭の上で傘を広げ、『葬儀屋』が髑髏面の奥で心底から愉快そうに笑った。


「落ち着け……俺はおっぱいに惑わされているだけなのか……どうなんだ……?」


 俺は初めての感情を必死に分析しようと試みる。


「え、だって……俺はざくろさんが寂しそうで、助けたくて……繋ぎ止めておきたくて……」


『そもそもお前なあ、赤の他人を命捨てて助けるような奴かよ。一目惚れだ、馬鹿』


「う、うああ」


 頭を抱えたい。けれど手を離したらざくろさんが起きてしまうかもしれない。俺に抱きついて寝ている彼女の寝顔が、急に正面から見られない。なんだこの可愛すぎる生きものは。ていうか女の子を抱きしめて寝るって状況がそもそもおかしいだろ!? どうして俺は他人にこんなに近い距離を許してるんだ!?


「ん、んん……うぅん……せいじぃ……」


 ざくろさんが俺の胸に頭をぐりぐりとすり寄せてくる。小動物みたいだ、可愛い。


 いやいやいやいや待て、寝言で俺の名前を呼ぶとか、それは反則だろう。


 あああいい匂いする! 女の子の匂いっていうかざくろさんの匂い、どうしようずっと嗅いでたい! 違う! 変態か俺は! どうかこの思考が伝わってませんように!


『はっはっは、相棒すげえ面白えな。百面相になってるぞ、盛り上げてやろうか』


『葬儀屋』がどこからかタンバリンを取り出してキレキレの動きで踊りながら叩いている。


 やめろこの野郎、盛り上がりたくないんだよこっちは。ああくそ、割り切れたらよかったのに。割り切れる、はずだったのに。あれだけ抑えてきたのに。今までの苦労が水の泡だ。


 どんな感情でもどんな状況でも分析してきたのに。今まで理屈で片付かなかった物事なんて、なかったのに。


 こんな分析できない感情、俺は知らない。もっと抱きしめたい、もっと触りたい。髪に、肌に、唇に、胸に。どこもかしこも柔らかいざくろさんの身体中全部、いや心の奥まで、触って撫でて可愛いと言って、どろどろに甘やかしたい。名前をもっと呼んでほしい。俺に、繋ぎ止めてしまいたい。


 知らない。俺がこんなに欲深い人間だったなんて、知らない。こんなに深く人間と関わりたい、触れたいと思うなんて、知らない。


 リアルでの人付き合いなんて煩わしいだけだったのに。俺は、鬼切ざくろを失うことが、世界が終わるより恐ろしい。


「俺は、俺は……なんでだ、こんなの知らないぞ……一から分析し直して……」


『無駄だぜ相棒。お前も解ってるだろ? 恋心なんて、分析不可能なのさ』


『葬儀屋』を無視して俺は分析を試みて、結局なにもわからず、一睡もできず朝を迎えた。

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