第三章 ふたりでひとつの心の臓
第8話 ふたりでひとつの心の臓 1
俺は目を覚ます。よく知っている、自室の天井が見える。カーテンの隙間から見える景色はまだ薄暗い。
起き上がる。間違いなく、俺の部屋で俺のベッドだ。
ゆうべのことは、夢だったのか? 心臓を握り潰された感覚だってありありと思い出せる。あんなにリアルなものが、夢?
味噌汁の香りが鼻をくすぐる。誰か、朝食を用意してくれているのだろうか。俺は一人暮らしだというのに、ありがたい限りだ。半分寝ている頭でぼんやりと考える。
身体を見ると、いつの間にかパジャマに着替えていた。ゆうべ着ていた文字Tシャツは枕元に畳んである。
広げてみるが、血の染みもついていない。『外道』とでかでかとプリントされた二文字もそのままだ。
ベッドの横に置いてあるデジタル目覚まし時計を見る。二〇二三年四月四日午前五時。いつもの起床時間より二時間も早い。
まだ眠たいし、二度寝してしまおうか。ベッドに潜り込んでうつらうつらとし始めた俺に、『葬儀屋』が話しかけた。
『馬鹿か、相棒。よく考えろ。お前は、一人暮らしだろうが。誰が味噌汁なんて、作ってるんだよ』
一気に意識が覚醒する。
そうだ、俺は一人暮らしだ。味噌汁の香りなんて、するわけがない。
パジャマ姿のまま、階段を駆け下りてリビングに向かう。
「おはよう、生き返れたんだね。死んだばっかりなんだから、無理しちゃだめだよ?」
鬼切ざくろさんが、制服にエプロンをつけて湯気の立つ鍋の前に立っていた。
「……あの、なんで、俺の家にいるの? 死んだばっかりって、どういうこと?」
俺は努めて冷静に訊いた。訊きたいことは山ほどあったが、とりあえず二つに絞ることにした。
彼女はなんでもないことのように、けろりとした顔で続ける。
「あれ、覚えてない? 助けてもらったお礼。ゆうべ、キミ死んだでしょ? 心臓ドッスリ、そんでグッチャリ」
「ドッスリ、グッチャリ……いや、ちょっと待って。一旦整理するから」
頭の中の疑問をまとめることにした。目を閉じる。吸って、吐いて、深呼吸。よし、どんな答えが返ってきても驚かないぞ。
「鬼切さん、どうして俺は生きてってう、あぁぁぁぁあぁあぁぁあぁぁッ!?」
どんな答えが返ってきても驚かないはずの俺は、驚きで盛大かつマヌケな悲鳴を上げた。
鬼切さんが、セーラー服の前をたくし上げて胸の下側を露出している。
たわわですべすべで、想像していた倍くらい大きくてもにゅもにゅで真っ白なおっぱいが、ぎりぎり乳首が見えないくらいの加減で、丸出しだ。
「ちょっとちょっと。おっぱい見せたいんじゃあないよ、落ち着いて」
「落ち着けないッ! なんでブラしてないんだよ! しまって! 自分を大事にして!」
「キャミソールは着てるよ。だから、おっぱいはどうでもいいんだって。胸の真ん中、心臓見て。心臓のあるとこ」
心臓、だと?
鬼切さんの胸の真ん中を見る。塞がったばかりの、生々しい傷痕が見える。
鋭利な刃物で深く切ったような、大きな
俺ははっと気づいて、パジャマの前を開ける。どうか最悪の予想が当たりませんように、と祈りながら。
全く同じ位置に、全く同じ傷痕があった。最悪の予想が、当たってしまった。
「夢じゃ、ない……」
『そうだよ相棒。お前はゆうべ、死んだ』
『葬儀屋』が俺を後ろから抱きしめるようにして、耳元で
うるせえ、少し黙ってろ。
俺の胸と、鬼切さんの胸に同じ傷痕がある。導き出される結論は、一つだった。
「鬼切さん、まさか、俺の……俺なんかの、ために、自分の心臓を、傷つけた……のか?」
彼女は無表情のまま、あっさりと答えた。
「そうだよ。わたしの心臓、キミに半分あげた」
「どうして、そんなことを――」
「キミが死んだら、嫌だったから。生まれて初めてだったからね、人に助けられるのは」
絶句した。理屈とかそういったものを超えた、
「俺、俺なんかが、鬼切さんの心臓を……」
思わずめまいがして、俺は頭を抱えた。
★
鬼切ざくろという女の子は、俺とは正反対の立場にいる生徒だ。俺は元々の悪評に加え、栗城たちとの一件で更に遠巻きにされていた。
鬼切さんは、逆だ。
近寄るのが
腰まで伸ばされた、絹糸のようにさらさらでつやつやの黒髪。陶磁器のような白い肌に、愛らしさと美しさを兼ね備えた、一分の隙もない美貌。身長は一五〇センチメートルほどと小柄で、
名前のとおり、
俺が『ぼっち陰キャモブ』なら、鬼切さんは『孤高のヒロイン』だ。
鬼切さんはとにかく綺麗で、入学した時から学校中の話題になった。
五十音順で運良く彼女の後ろに座ることができたのは、今思えば幸運としか言いようがない。
走馬灯を見て自覚したが、無意識のうちに俺は彼女をずっと目で追っていた。
もちろん、他の男どもも同じだった。鬼切さんは学年や性別問わず次から次へと告白されて、けれど毎回返事もせずに無言でいるため相手が折れる、というパターンだった。
彼女は無口で無表情、授業で当てられたときしか喋らない。休み時間はどこかへ行ってしまうか、寝ているかのどちらかだった。昼休みには黙々と一人で弁当を食べている。女子グループや暗黙の了解やスクールカーストなど、どこ吹く風といった自由さだった。
高校一年の七月の終わり、サッカー部員にやられた俺の怪我が治りはじめてきた頃である。
三年生のひときわモテるらしい男子を振った鬼切さんは、上級生の女子グループに目をつけられた。
少し前の俺と同じように、体育館裏に連れて行かれる彼女の後ろ姿がやけに小さく見えた。よくよく見たら、肩も震えていた。
いてもたってもいられなくなった俺は、でかい図体を折りたたんでこっそり後をつけた。
「テメェ調子こいてんじゃねぇよ!」
「つーかナニ様ぁ? お前くらいのレベルどこにでもいるから!」
「なに、ぼっちだから喋れないわけ?」
「もしもーし。日本語理解してまちゅかぁ?」
「……おい! なんとか言えよ!」
「…………ねぇ、こいつヤバいよ。もう行こう」
鬼切さんは、ただ無言で立っていただけだった。ひと睨みで、有象無象の女子は散った。
すごい。感動した。美貌と眼光と迫力だけで、彼女は十数人の女子グループを追い返した。
思わず身を乗り出した俺に、鬼切さんが振り返る。
ざぁ、と風が吹く。黒髪がなびき、紅い瞳が俺を映す。時が止まったようだった。
「ねえ」
彼女は確かに、俺に向かって言った。
「キミもわたしに、なにか用?」
「お、俺は」
完全に予想外だった。『葬儀屋』が腹を抱えて笑っている、畜生め。
俺が? 俺みたいなモブが、鬼切さんに話しかけられた? 落ち着け、落ち着くんだ黒羽聖司。
「俺は、鬼切さんが、心配だったから……ついてきた、んだ」
言えた。言えたぞ俺。声は震えていたが、答えられた。内心でガッツポーズをする。
「そっか、ありがとう」
鬼切さんは去って行った。俺は、熱くなった顔で呆然と彼女を見送った。
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