夜に沈む 11

 私たち三人をのせた小舟は海の上を滑るように走っていた。

 頬を撫でる風が心地いい。穏やかな波は太陽の光を反射させ、周囲にきらきらと光の粒子をふり撒いていた。


 船首で櫂を漕ぐ男が私たちの方を振り返って言う。男の右手は、島の東にある海の洞窟を指差していた。水上汽車に乗っている時に見た、あの洞窟だ。「あそこの洞窟にはね、海賊のお宝が眠っているという伝説があるんですよ。ま、私らは何度もあそこに行ってますが、一度も見たことがありませんけどね」


 船尾では船頭の息子らしき若い青年が櫂を動かしている。彼はおしゃべりな父親とは正反対の寡黙な性格らしく、私たちはまだ一度も彼の声を聞いていない。


「もうすぐ店仕舞いの時間だったのに、舟を出していただいてすみません」私は彼らに詫びた。私たちが親子に声をかけたとき、まだ三時頃だったが彼らは帰りの支度をしていた。

「いやあ、とんでもない。逆に助かりましたよ」私の言葉を聞いた父親が首を振った。「少し前に港で起きた殺人事件のせいで観光客が減ってしまってね。お客さんたちが来てくれなきゃ、今日の売り上げはゼロでしたから。たっぷりサービスしますんで、楽しんでいってください」


 親子は観光客を舟に乗せ、海の洞窟まで案内するのを生業にしているらしい。アズーロ周辺の海は潮の流れが複雑だと聞いていたが、彼らは手慣れた様子で舟を進めている。素人には分からない海の表情が読めるのかもしれない。


 黎が私の耳元に口を寄せて尋ねる。「ナオ、ほんまに碧水晶があの洞窟にあるんか?」

「多分…いや、間違いないと思う」

「どうしてそう思うんだ?」と真白。

「私ずっと疑問だったの。海の夢を見ることができるのは碧水晶の歌を聴いた人だけなのに、どうして街の住民の全員が夢を見るようになったんだろうって。水晶が海の底に沈んだなら、誰にも歌は聴こえなくなるから、夢は見ないはずでしょう。

 だから私は逆に、どういう手段をとれば、碧水晶を使って島民に夢を見せることができるかを考えてみたの。仮に今、私の手元に碧水晶があったとして、この歌声を島中に届けるにはどうすればいいかを」


 話している間にも舟は少しづつ洞窟に近づいて行く。私は海にむかって口を開ける洞窟の入り口を見つめながら続けた。

「私だったら巨大な拡声器を使う」

「そりゃ、理論上は可能やけど…。街の全員に聞かせられるような巨大な拡声器なんか、さずがにないやろ」

「いや、まてよ……。一つだけある」真白はしばらく考え込んだあと、そう言って島の東にある台形の山を指差した。その中腹には洞窟がぽっかりと黒い口を開けている。「ダグラスさんの話を思い出してみろ。夜になるとあの洞窟を吹き抜ける風の音が、街に響き渡ると言っていただろう。

 碧水晶の歌声を、山から街へ吹きおろす風に乗せることができたら、歌声を島全体に響き渡らせることができる。あの洞窟は天然の巨大な拡声器と化すんだ」


「てことは、あの山の洞窟の中に碧水晶があるってことか…?」黎は眉間に皺を寄せて首を傾げた。その顔にはまだ疑いの色が残っている。彼は先生に質問をする生徒のように右手を挙げた。「ちょっと待った。あの水晶は海に沈んだはずやろ。それになんぼ歌声を風に乗せたとしても、歌声自体が小さかったら意味ないで。やっぱり山にはないと思うけど」

「黎の言う通り、山の洞窟にはないと思う」私はそう言って舟の目的地である海の洞窟を指差した。入口はもう目前にまで迫っていた。「だけどもしあの海の洞窟と、山の洞窟が繋がっていたら」

 黎が「あっ」と声を上げた。


 私たちを乗せた舟は、海にむかってぽっかりと口を開けた洞窟の中へと入っていった。

 洞窟内部はぼんやりと青色に輝いていた。海底の白い砂が太陽の光を反射させているせいだろう。内部を照らし出す青い光は波が揺らめくたびに、微妙に色合いを変化させた。

 なによりも驚いたのは音の反響である。

 閉ざされた洞窟の内部では打ち寄せる波の音や、壁から滴る水滴の音が何倍もの大きさとなって響き渡っていた。


「この反響…」真白の声は独り言のような小さな呟きだったのにもかかわらず、洞窟の中で大きく木霊し、私の鼓膜を震わせた。

「こんだけ音が響くんなら、歌声が街に届いても不思議じゃないな。おっちゃん、悪いけどもうちょっとだけ舟を奥に進めてもらえる?」

 黎のお願いに、船頭が威勢よく返事をする。彼の声も洞窟の中で反響し、何重にも重なり大きく響き渡った。


 私の予想が合っていれば碧水晶はこの洞窟の中にある。

 あの火傷痕のある泥棒の仲間は、アルマ夫人の屋敷から盗み出した宝石類を、夜中に舟で島の外へ運び出そうとした。けれど不運なことに盗んだものの中には碧水晶も混じっていた。

 もしも港で殺人事件が起こっていなければ、港での手荷物検査は行われなかっただろうし、泥棒の仲間も盗品を汽車で安全に運び出すことができていただろう。しかし事件は起こり、泥棒は月夜の晩に舟を出した。

 碧水晶は夜に歌うのだ。あの歌は人魚の歌だ。舟の上で聴けばどうかなるかなんて考えるまでもない。舟は乗っていた人間や宝石類とともに海の底へと静かに沈んでいった。だが、碧水晶だけは沈まなかった。

 どういう経緯でこの洞窟までたどり着いたのかはわからないが、とにかく水晶はこの島へ戻ってきたのだ。かつて愛した人が住んでいたアズーロの島へと。

 水晶は毎晩歌い続けた。

 碧水晶の歌声はこの洞窟の中で反響し大きくなり響き渡る。その歌声は洞窟の内部を吹き抜ける風によって、あの東の山にある洞窟の出口へと押し出される。そして押し出された歌声は、東から西へと吹きおろす風によって街全体に届けられる。

 子供たちはぐっすり眠り、大人たちは悲しい夢を見る。

 これがアズーロの街で起こっている奇妙な事件の真相だ。


 港で殺人が起こったこと、夫人の屋敷に泥棒が入ったこと、泥棒が舟で盗品を運び出したこと、碧水晶が複雑な潮の流れによってこの洞窟に流れ着いたこと、山と海の洞窟が繋がっていたこと、夜に山から街へ吹きおろす風があったこと…。

 奇妙な共通夢は様々な偶然が重なった、運命のいたずらによって起きた事件だったのだ。


 私たち三人は青く輝く洞窟の中を目を凝らして探した。

 私たちの舟がある場所から三メートルほど進んだ先は行き止まりとなっている。落盤によって崩れたのか、天井部分にはぽっかりと大きな穴が空き、その向こうには斜め上へと伸びる横穴が続いている。暗くてよく見えないが、おそらく山の洞窟の出口へと続いているのだろう。

 碧水晶はまだ見つからない。だが必ずこの洞窟のどこかにあるはずだ。アルマ夫人のためにも絶対に見つけないと…。


 視界の端で何かがきらりと光った。私はそちらに視線を向け、そして声を上げた。

「ねえ、あそこ!あの岩の影にあるのって碧水晶じゃないかな」

 私は右側にあるゴツゴツした岩場を指差した。それは海底から一メートルほど突き出た岩場で、そのでっぱりの部分には青い光を反射させて輝く丸いものが引っかかっていた。


 舟をそちらに近づけてみると、やはりそれは間違いなく碧水晶だった。

 真白が手を伸ばし水晶を掴んだ。

 船頭が目を真ん丸にして言った。「はあ、驚いた。なんですかそれ」

「碧水晶です」私が答える。「覗くと海が見えるという不思議な水晶玉です」

 真白の掌の中できらきらと光を放つ水晶玉の中には、小さな海があった。

 青い水晶玉の底部にはごつごつした岩場と桃色のサンゴ礁、それとイソギンチャクと赤紫色の海藻が波にあわせてゆらゆらと揺蕩っている。その間を泳ぐのは橙色のクマノミや、色とりどりの名前も知らない小魚たちだ。いたずら好きのイルカが私たちの目の前を勢いよく横切って行った。

 水晶玉の中には夢で見たそのままの景色が広がっていた。


「すごく綺麗…」

 私の言葉に黎がうんうんと頷く。「想像してた百倍綺麗や。アルマ夫人、喜ぶやろなあ」

 ついに私たちは碧水晶を見つけたのだ。

「真白。私もその水晶玉を触ってみてもいいかな」

 私がそう言うと真白は微笑んで碧水晶をこちらにさし出した。「気をつけて」

 私はそれを落とさないよう、おそるおそる彼の手から受け取った。


 触れた瞬間に感じたのは、温かいぬくもりだった。きっとこれは人魚が青年に抱いていた愛情だろう。そのぬくもりは掌からじんわりと広がり、私の身体全体を心地よく包み込んだ。そして次に感じたのは、青年の幸せを願う思いだった。

 これだけ長い年月を経てもなお思念が残り続けているのだから、彼女が青年に寄せていた思いは相当なものだったことが窺える。


 驚いたことに、そこに恋を引き裂かれた悲しみや、自分を捨てた青年への恨みなどは一切なかった。あるのは青年の幸せを思う純粋な願いだけだった。

 気がつくと私の瞳から一筋の涙がこぼれていた。こんなにも真っ直ぐで純粋な心に触れたのは、長い人生の中で初めてのことだったのだ。

「ナオ」真白が人差し指で私の涙を拭いながら言う。「帰ろうか、アルマ夫人のところに」


 舟は大きく円を描くように旋回し、舳先を洞窟の入口へと向けた。半円形に切り取られた入り口の向こうの空は、うっすら茜色に変化していた。


 もうすぐ日が沈む。アズーロの島に夜が来る。けれどもう誰も、あの夢を見ることはない。悲しい思いを抱きながら海の底でなにかを待ち続ける夢を見ることはないのだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る