夜に沈む 10
人が宙を舞う姿を見たことがあるだろうか。
この不思議な異世界に飛ばされて二日目の昼下がり、私は生まれて初めてその瞬間を目撃した。
抜けるような青空を背景に、盗人は放物線を描いて空へ舞い上がった。
私たちが街で火傷痕のある男について聞き込みを始めたのが、今からちょうど三十分前。特徴的な傷跡のおかげで盗人の居場所はわりとすぐに特定することができた。
小さな家々が雑多に立ち並ぶ路地の一画に男の住居はあった。白い壁はひび割れ、泥やら原因の分からないシミやらでひどく汚れていた。
その扉をノックしたのが一分前。
そして現在、黎の長い脚によって蹴り飛ばされた男は宙を舞ったあと、鈍い音をたてて石畳の上に落下した。上体を起こした彼の顔には苦痛と怒りと虚勢と、それから困惑とがほどよくブレンドされた表情が浮かんでいた。
「なっ、なんだてめえら」
「ちょっと聞きたいことがあるんやけど」黎が男の前にしゃがんで尋ねる。「あそこの山の麓にある屋敷に泥棒が入って、水晶玉が盗まれたみたいでな。なんか知ってることないか?」
「どうして俺に聞くんだ。知るわけないだろ」
「素直に話しといたほうがええと思うけどな」黎は男の襟首をつかむと、勢いよく引き寄せた。「まあでも、話したくないんなら別にええよ。俺こう見えて結構気が長いほうやから、ゆっくりじっくり膝を突き合わせて、あんたの身体に──」
と、私の両耳にひんやりとした何かが触れた。一瞬おくれて、真白が私の耳を掌で塞いでいるのだと気がついた。振り返った私と目が合った真白は、目を閉じ無言で首を振った。聞かなくていい、ということらしい。
子供じゃないんだから、そんなことしてもらわなくても大丈夫だよ、と言いかけたところで指の隙間から微かに、爪だの歯だのと不穏な言葉が漏れ聞こえてきた。私はなにも聞かなかったことにして、青い空を見上げた。
よく晴れた気持ちのいい天気だ。
二羽のウミネコが私たちの頭上を横切って行った。二羽は一定の距離をたもちながら寄り添うようにして飛んでいる。あれは番だろうか、なんてことを考えていると黎が私たちの名前を呼んだ。
「真白、ナオ!」
笑顔の黎の脇には、先ほどの威勢のよさがすっかりなくなった青白い顔の男がへたり込んでいた。どうやら(一方的な)話し合いは終了したらしい。
「このお兄ちゃんがぜんぶ正直に話してくれるって。な?」
男は引き攣った顔で小刻みに頷いた。なにを吹き込まれたのかは分からないが、ここまでくると少し気の毒でさえある。
私たちは彼の前にしゃがんだ。
「それじゃあ早速だが」最初に質問を投げかけたのは真白だった。「あの屋敷に忍び込んだのは君で間違いないな」
「間違いない」
「では君をあの屋敷に手引きしたのは誰だ?」
真白の質問を聞いた私たち三人は驚いて彼の方を向いた。
「共犯者がおるってことか?」
「当たり前だ。偶然屋敷に誰もいない時間に、偶然開いていた窓から侵入したなんてうまい話、あるわけがない。おおかた使用人の中に内通者がいて、事前にあの窓の鍵を開けておいたのだろう」
確かに言われてみればその通りだ。なぜ今の今まで気がつかなかったのだろう。
「で、誰なんや共犯者は」
黎に問い詰められた男は渋々仲間の名前をあげた。金に困っている使用人をそそのかして、鍵を開けさせたらしい。私は目の前にいる男にも、アルマ夫人を裏切った使用人にも腹が立った。
「盗んだ碧水晶はどこに?」私が尋ねる。
「碧水晶…?ああ、あの海が見える水晶玉のことか。あれならもう無い。というより、あの屋敷から盗んだものは全部消えちまったよ」
「消えた?」と真白。
「あの家に盗みに入った翌日の夜中に、俺の仲間が盗んだ品物を舟で島の外へ運び出したんだ。島の中で売ると足がつくから、よその地域で捌くんだ。
今までは水上汽車で運んでいたんだが、殺人事件が起こってからは手荷物検査をするようになっただろ。だから舟で運んだ」
男は苛立たしげに顔を歪めて話を続けた。
「だがあの野郎は帰ってこなかった。持ち逃げしやがったんだ。
あれは今までで一番デカい仕事で、しばらくは遊んで暮らせるぐらいの儲けだったのに。……ああ今思い出しても腹が立つ。あいつさえ裏切らなきゃ、こんなクソみたいな生活とはおさらばだったのによ。あの野郎、次に会った時は絶対にぶっ殺してやる」
「次はないよ」真白が呆れた様子で呟く。
「あ?」
「そいつは二度と戻って来ないって言うとるんや」
当然だ。あの水晶は夜に歌うのだ。聞こえてくるのは人魚の歌声。舟の上でその歌を聞けば、次に何が起こるかなんて容易に想像がつく。
──きっと今頃は、夫人の屋敷から盗み出した宝石とともに海の底へと……。
私はそう言いかけてはたと口をつぐんだ。果たして本当にそうだろうか?
男が嘘を言っていないとすると、アズーロの共通夢に関する大きな謎がまだ一つだけ残っている。
「どうしたナオ。ずいぶん浮かない顔だ」と真白。
「碧水晶が海の底に沈んだことと、アズーロの人たちが夢を見るようになったことに、どうしても関係性が見出せなくて。夢を見るには碧水晶の歌声を聴かないといけないわけでしょう。海に沈んだら歌声が聴こえなくなるから、逆に夢は見ないはずなんだけど…」
「それは僕も考えていた。だけどどれだけ考えても適当な理由が思いつかないんだ。僕らが話を聞いた人たちが嘘を言っているとも思えないし…」
宿屋の主人の話、ダグラスお爺さんの話、アルマ夫人の話、そしてこの男の話。それぞれの話に矛盾はなく、誰かが嘘をついている様子はない。
アズールの街が見ている不思議な夢の謎を解くためのピースは、おそらくすべて出揃っているのだと思う。あとは組み立てるだけなのだが、どこから手をつければよいものか…。
私たちは目の前の問題に黙り込んでしまった。黎に肩を掴まれたままの男が怪訝な顔で三人を見ている。
頭上を旋回していたウミネコが一声鳴いた。
見上げると、先ほどまで二羽で飛んでいたはずのウミネコはいつの間にか一羽だけになっている。もう一羽はどこに行ったのだろう。残された一羽はいなくなった魂の片割れを偲ぶかのようにもう一度だけ鳴き声を上げ、彼方へ飛び去ってしまった。それはとり残されたものが出す悲痛な叫びだった。
──鳴き声。
そういえばダグラスお爺さんは、なにか気になることを言っていなかったか。
『この山にはあの洞窟以外にもたくさんの洞穴が空いていて、そこに風が吹き込むとヒューだのゴオーだのと、やかましい音を立てるんだ。いわば天然の管楽器だな。
この島は夜になると、東から西へ──山から街へ吹きおろす強い風が吹く。その際にあの洞窟からでたヒューッという悲しげな音が風に運ばれて、街に響き渡るんだ。それが人魚の泣き声の正体だよ』
私は路地の向こうに見える東の山に目をやった。山から街へ吹きおろす強い風。
──まさか。
私の脳裏で、ある考えが閃光のようにひらめいた。私がこの街で見た景色、聞いた話、そしてこの街で起こっている事件。バラバラだったそれらが、脳内でジグソーパズルのように音をたてて組み合わさっていく。
そうか、そういうことだったのか。
アズーロの島民がみている不思議な共通夢は偶然の産物によるもの、奇妙な運命のいたずらによって生み出されたものだったのだ。
私は勢いよく立ち上がり言った。
「碧水晶のある場所がわかったかもしれない!」
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