夜に沈む 9
私たちは屋敷の西側の二階にある寝室へと案内された。
広い寝室にはキングサイズのベッドが三つ並んでいた。寝室の東側には白いレースのカーテンが掛かった大きな掃き出し窓があり、その先にはバルコニーがあった。バルコニーからはアズーロの街並みと海が一望できるようになっている。星の美しい夜にここに立てば、きっと最高の景色を堪能することができるだろう。
「子供たちが小さかった頃は、この寝室で家族みんなで寝ていたのよ。大きくなってからはそれぞれの寝室で眠るようになったけれど。
でも時々──嫌なことや悲しいことがあった夜なんかは、ここに戻ってきたわ。楽しい夢を見にね」
夫人はベッドの脇にある木製のキャビネットの前に立った。キャビネットの上には水晶を置くための、猫脚の台座だけがぽつんと取り残されていた。
「でも今はもう駄目ね。あの夢を見ることは出来ない。碧水晶は盗まれてしまったから」
「盗まれた?」黎が目を見開く。
「あれは今から一カ月ほど前の、満月の輝く夜だったわ。あそこのバルコニーから泥棒が入ったの。私が鍵をかけ忘れたせいでね」
夫人は掃き出し窓の方を指差した。
「さいわい家には誰もいなかったから犯人と鉢合わせすることはなかったけれど、泥棒に入られたと気がついた時には、碧水晶はすでに金目のものと一緒に盗まれてしまっていたわ。
お金でも宝石でも好きなだけ盗んでいけばいい。でもあの水晶だけは残しておいてほしかった。長男の結婚祝いに、私からあの子へ受け継がせるつもりだったのに…。
私、あの夢の中で歌声を聴くたびに申し訳ない気持ちでいっぱいになるの。なんだか水晶が家に帰りたいと嘆いているような気がして…」
夫人は感情を押し殺した声でそう言って睫毛を伏せた。彼女の左手は名残惜しそうにキャビネットの上に添えられている。先祖代々受け継いできた宝物を奪われた悔しさは、察するに余りあった。
彼女の心に呼応するように、胸の奥がズキンと痛んだ。
「犯人に心当たりは?」
真白の問いかけに夫人は首を振った。
警察は犯人はおろか手掛かりすらも見つけられていないらしい。いや、見つける気がないと言った方がいいだろう。警察は港で起こった殺人事件にかかりきりで、こちらの空き巣事件はろくに捜査をしていないそうだ。
「島民たちがあの夢を見るようになったのは、碧水晶が盗まれてから三日ほど経った頃よ。
ある朝うちの息子が真っ青な顔で私のもとに駆け込んできて言うの。『お母さん、大変です。街中が夢の話でもちきりです』と。
彼からくわしい話を聞いた時は本当にぞっとしたわ。その日の前の晩にあの夢を見ていたのだけど、まさか街の人たちまで同じ夢を見ていただなんて。
もしも夢の原因が水晶玉にあるということが人々に知られたら、どうなることか…。さいわい碧水晶について知っているのは私たち家族と、うちで働いている数人の使用人、それとダグラスお爺さまだけだった。
だから私は彼らに箝口令をしいたの。絶対に碧水晶のことは他言しないようにと」
夫人は言い終えたあと、困ったように微笑んで言葉を付け加えた。「まあ、お爺さまは口が軽いから、あまり期待はしていなかったけれど…」
ダグラスお爺さんの豪快な笑い声が耳に蘇る。たしかに彼と秘密を共有するのは難しそうだ。
私は少し気になったことを夫人に尋ねた。「どうして箝口令をしく必要があったんですか?たとえ碧水晶が原因だったとしても、悪いのはそれを盗んだ泥棒であって、アルマ夫人は被害者でしょう。誰も責めたりはしないのでは」
「いや、そうでもない」真白が首を振る。「もしも話してしまえば、連日の夢によって疲弊した島民たちの中から、姿の見えない犯人ではなく、目の前にいるアルマ夫人を責め立てる者が出てくるのは容易に想像がつく。会社を経営している夫人にとっては、たとえ自分に非がなかったとしても、そういう展開は好ましくないのだろう」
「そうかな…」
真白の説明を聞いてもいま一つピンとこない。どうして夫人が責められるようなことがあるのだろう。
黎がなれなれしく私の肩を組み、真白の説明に付け加えた。「ナオの世界にもおったやろ。痴漢した犯人じゃなくて、痴漢された女の子の方を『お前がそんな格好してるから悪いんやろ』って責めるやつ」
「それならたまに…ううん、けっこういるね。そういう人」
なるほど、黎の説明でようやく腑に落ちた。現実世界だろうが異世界だろうが、そうやって被害者を追い詰めようとする輩はどこにでもいるらしい。
「私も昔言われたことがあるけど、本当に最低だよ、ああいうことを言う人って」
苦々しい顔で呟く私を見た夫人がふっと口元を緩めた。「みんながあなたのように優しい方ばかりだったらいいのだけれど」
「黎」真白が名前を呼んだ。キャビネットの上の台座を指差している。「匂いを追えそうか」
「アホ言うな。なんぼ俺でも一カ月も前の匂いなんか追えるかいな」
「やはり駄目か…」
「いいのよ、その気持ちだけで十分。そのうち警察の方たちが犯人を突き止めてくれるわ」アルマ夫人はそう言うとにっこりと微笑んだ。
また私の胸がズキンと痛んだ。
なぜ彼女がこんな哀しい顔をしなければいけないのか。夢の中で感じた、あの悲しい感情が胸の内に蘇ってくる。犯人が許せなかった。
できることならサイコメトリーの能力を使って、彼女の力になってあげたい。だが私の能力は、物に残された主観的な記憶を追体験するものだから、触れたところで犯人につながる情報が得られるとは思えない。私にできることはなにも……。
──いや、違う。
脳裏に閃くものを感じた私は、はっと顔を上げた。そうだ、あれなら分かるかもしれない。
私は三人にむかって、上擦った声で言った。「あ、あのっ。私なら犯人が分かるかもしれません…!」
「そうか、ナオの能力やったらいけるかもしれんな」
顔を輝かせる黎に対し、真白は心配そうな表情を浮かべた。
「大丈夫なのか。無理をする必要はないんだぞ」
「ううん、平気。無理をしてでも私はアルマ夫人の力になりたいの」私はそう言ったあと、夫人の方を向いて訊いた。「アルマ夫人、バルコニーに出ても構いませんか?」
「ええ、お好きにどうぞ」
バルコニーに出ると涼しい風が頬を撫でた。
アズーロの白い街並みと、緑の木々、そして青い海が視界に飛び込んでくる。太陽の光を反射させきらきらとまぶしく光る波の間を、何艘かの木舟が漂いながら漁をしていた。アズーロの海の香りは、山の麓に建つこの屋敷にまで届いていた。
部屋の中では真白と黎が心配そうな顔で、夫人がいったい何が行われるのか興味津々といった顔で私を見つめている。
私はバルコニーに立ち、窓に手を伸ばした。
犯人は家に侵入するときにきっとこの窓に触れていたはずだ。
憎悪や悲しみに加え、緊張や興奮といった通常とは異なる精神状態の思念は、その場に強く長くとどまる性質がある。そのため、それが残されたのがたとえ一カ月前だったとしても、私には鮮明に感じ取ることができるのだ。
指先が窓に触れる。
その瞬間視界が揺らぎ、世界が昼から夜に変わった。私の身体の内部に強い緊張と焦りが走った。
ビンゴだ。犯人の思念が残っていた。私と犯人は一体になり、彼の記憶の追体験が始まった。
私は──いや、男は酷く興奮していた。呼吸は荒く、心臓は耳の奥でやかましく鳴り響き懸命に血液を全身に送り出している。このバルコニーまで自力で登ってきたせいもあるが、やはり一番の原因は罪を犯すことへの緊張とスリルによるものだろう。
頭上には黄色い満月が煌々と輝いている。山の木々と海のざわめき以外に周囲に音を立てるものはいない。
男は窓ガラスに顔を近づけて真っ暗な部屋の中の音に耳を凝らした。カーテンが閉め切ってあるため中の様子を見ることはできないが、話し声や衣擦れの音は一切ない。大丈夫、誰もいない。
涼しい夜だったが男の全身からは汗が噴き出していた。
男は疲労と緊張で震える手で額の汗をぬぐい、バルコニーの窓枠に手をかけた。窓は何の抵抗もなく開いた。男は隙間に身体を滑りこませた。
そこで私はようやく我に返った。
周囲は明るい光がふりそそぐ昼間に戻り、私の前には不安げに私の顔を見つめている三人の姿があった。
「突然黙り込むから驚いたわ。どこか具合でも悪いの?」夫人が私の頬に両手をあてる。まるで熱を出した子供を心配する時のような仕草だ。
私は夫人の手を取り言った。「大丈夫ですよ夫人。それより犯人がわかりました」
「わかったって、いったいどうして。何か手がかりでも残っていたというの?」
私は驚きに目を見開く夫人に、私自身が持っている能力のことを説明した。サイコメトリーのこと、窓に犯人の残留思念が残っていたこと、それを読み取ったこと…。
夫人は私の言うことをすんなりと信じてくれた。こちらの世界では私のような特殊な能力を持つ者の存在はそれほど珍しいものではないのかもしれない。
「それで、犯人の姿が見えたのね」
「はい。犯行が行われたのが、月の明るい夜だったのが幸いしました」
屋敷からまんまと宝物を盗みおおせた犯人にとっての唯一の不幸。それは、
犯行が行われた時刻、空には満天の星と金色に輝く満月が夜の闇を照らしていた一方、部屋の中は真っ暗だったという点である。
この内と外の明暗の差によって窓ガラスが鏡の役割を果たしていたのだ。
私の目はそこに映る犯人の姿をはっきりと捉えていた。
「犯人は、左の頬に大きな火傷痕のある男です」
「大きな火傷痕…」真白が思い出したように顔を上げた。「昨日、通りでナオにぶつかったあの男か」
「あいつ…、やっぱあの時にしばいとくべきやった」
「あなたたち、その男に心当たりがあるのね?」夫人が私たち三人に言う。「ねえ、すごく厚かましいお願いなんだけれど、その男から碧水晶を取り戻してきてくれないかしら。警察は頼りにならないし…、あなたたちしか頼める人がいないの。お願い、お金だったらいくらでも──」
「いいえ夫人」真白が彼女の言葉を遮って言った。「お金なんていりません。ちゃんと取り戻して差し上げますよ。彼には個人的に恨みがあるので」
「俺の大事な嫁に肩ぶつけておいてタダで済むと思うなよ」と黎。
いや、肩がぶつかった件に関しては、完全に私の方に非があるのだけれど。
理由はどうあれ、とにかく私たちはアルマ夫人の屋敷を後にして、火傷痕のある男を探すために街へと向かった。
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