夜に沈む 7
私たちを出迎えたダグラスお爺さんは、右手に長い白の毛糸を持っていた。毛糸の先には手のひらサイズの大きな黒い蜘蛛がくくり付けてある。
私の視線を察したお爺さんは「コウモリが捕まらんでな」と言って肩をすくめた。
現在お爺さんの家の害虫駆除大臣は彼が務めているらしい。真白が彼に触れようと手を伸ばすと、蜘蛛はさっと食器棚の上に這い上り、私たちの方を睨んだまま蹲ってしまった。どうやら誇り高き大臣は蛇がお気に召さなかったようだ。
ダグラスお爺さんは年こそ取っているが、毎日コウモリのケツを追いかけているだけあって動きはきびきびしていたし、目も耳もまったく衰えていなかった。ごつごつした太い指や二の腕の盛り上がり、そしてよく日に焼けた褐色の肌は、彼が若い頃たいへん腕のいい漁師だったことを示していた。
お爺さんは私たちをリビングへと案内し、お茶を淹れてくれた。伴侶が亡くなってからは話し相手がほとんどいなかったため、客人なら誰でも大歓迎なのだという。不思議な夢について話を聞かせてほしいという、急なお願いにも快くこたえてくれた。
朝の陽射しがさしこむ明るいリビングには心地よい潮の香りが漂っていた。ダグラスお爺さんの家は海岸のすぐそばにあったのだ。
「人魚の祟りだと?」宿屋の主人の話を聞いたお爺さんは目を真ん丸にして、豪快に笑った。「やつめ、まだおかしなことを言っているのか。第一あの汽車は人魚たちの許可を得て造られたものなんだから、恨みもなにもあるわけがないだろう」
「だけどお爺さんはご主人の説に賛成してくれたと聞いていますよ」私は言う。
「ワシは『あの夢に人魚が関係しているというのは一理ある』と言っただけだ。それなのにまるでワシがあいつの説に手放しで賛成していると解釈しよって…困ったものだよ。あいつはホラ、他人の言葉を自分の都合のいいように解釈する節があるからな」
「まあ、そやな…そういうとこはある、かな。ちょっと」
私たち三人は昨日のやり取りを思い出し、曖昧に頷いた。
「どうしてあなたは人魚が関係していると思ったのですか」と真白。
「いや、“関係していると思う“ではなく、関係していると断言してもいい。
この島の周辺に人魚がいるのは知っているだろう。水上汽車ができてからはほとんどの者がよそへ移ってしまったが、ワシが若かったころは沢山棲んでいたんだ。
彼女たちの美しさといったら、そりゃあもう言葉にはできないほどだった。黄金色の艶やかな髪や、陶器のような白い肌が青い波の中を縫うように泳いでいるんだ。ワシも若い頃は友人たちと連れたって、崖の上から彼女たちの姿をうっとりと眺めていたものだ。
ただし船で近づくのは駄目だ。うっかり彼女たちの歌声を聞いてしまうとお終いだからな。人間と人魚は遠くからお互いの姿を認めることはあっても、決して交流しあうことはない。今はそんなことはないのかもしれんが、すくなくともワシが若い頃はそうだった」
お爺さんはお茶を一口飲んでから言葉を続けた。
「だが子供の頃に一度だけワシのひいひい爺さんから、人魚と恋に落ちた男の話を聞かせてもらったことがある。
爺さんが子供の頃の話だから、かなり昔の話だ。
アズーロの街に一人の青年が住んでいた。家柄のいい優秀な家庭の生まれでありながら、誰にでも分け隔てなく接する優しい男だったから、みんなから好かれていた。
ある日、男が海岸を歩いていると岩場に美しい女が腰掛けているのを見つけた。
まさかと思いながら近づいてみると、それは人魚だった。
彼はおそるおそる彼女に近づき『そこで何をしている』と尋ねた。
すると女は答えた。人間の世界を見に来たのだと。
普段海の底で暮らしている人魚が海岸までやって来ることは、ほとんど、いやまったくと言っていいほどない。それなのに彼女はさも当たり前のようにそこにいた。きっと変わり者の人魚だったのだろう。
女は毎日その岩場に現れ、男も毎日そこに通った。きっとお互いになにか惹かれあうものがあったのだろう。二人が恋に落ちるのにそう時間はかからなかった。
幸せの絶頂にあった二人の恋が唐突に終わりを迎えたのは、それから半年ほど経った日のことだった。
二人の秘密の逢瀬が街の人間に露見してしまったのだ。
男がただの平凡な人間ならば誰も咎めはしなかったのだろうが、男は良家の生まれで親が決めた許嫁がいたのだ。さすがにそんな男がよその女と仲睦まじくしているのは良くない。
だから人魚のほうは泣く泣く彼のもとから身を引いたんだ。
その日以来、夜になると街には恋を引き裂かれた人魚の悲しげな泣き声が響き渡るようになった」
「悲しい伝説ですね」と私が言うと、お爺さんは首を振った。
「伝説なんかじゃない、本当にあった話だ。山の麓に大きなお屋敷があるだろう。人魚と恋に落ちたのはあの家の、今は亡き何代か前の当主さ」
その屋敷なら知っている。水上汽車でこの島に到着する前に見た、山の麓にそびえる西洋風の白い洋館だ。
「せやけど夜の街に人魚の泣き声が響き渡るってのは、ちょっと信じられへんで」
黎の言葉を聞いたお爺さんは椅子から立ち上がり、窓の外を指差した。
「いいや、それも本当の話だ。あの山の中腹あたりに洞穴が空いているのが見えるだろう」
彼の指差した先に、青空を背景にどっしりと構える台形状の緑の山があった。その中腹には崖崩れによるものか、地層が剥き出しになっている箇所があり、そこに黒い大きな洞穴がぽっかりと口を開けていた。
「この山にはあの洞窟以外にもたくさんの洞穴が空いていて、そこに風が吹き込むとヒューだのゴオーだのと、やかましい音を立てるんだ。いわば天然の管楽器だな。
この島は夜になると、東から西へ──山から街へ吹きおろす強い風が吹く。その際にあの洞窟からでたヒューッという悲しげな音が風に運ばれて、街に響き渡るんだ。それが人魚の泣き声の正体だよ」
「人間と恋に落ちた人魚は実在した、という話は分かりました」と真白。「しかしまだ話が見えません。あなたはどうしてあの夢と人魚が関係していると断言できるのですか」
「ああ、一番大事なことを言うのを忘れていた。これだから年を取るのはいかん。人魚は青年のもとを去る際に『これを私の形見だと思って大切にしてくれ』と言って美しい水晶玉を渡したんだ。
不思議なことにその水晶玉は夜になると歌ったそうだ。
水晶は男の部屋に飾られていたそうだが、その部屋で眠った子供は夢も見ないほどぐっすりと眠った。おそらく母なる海に抱かれていた頃を思い出すのだろう。
逆に大人は海の底で、美しい魚や人魚たちと遊ぶ幸せな夢をみるのだそうだ。
どうだ、今この街で起こっている現象にそっくりだろう」
ダグラスお爺さんは得意げに右側の眉を上げた。
「たしかにそっくりですね…」私は顎に手を当てて唸った。
夢の内容こそ異なるが、大人だけが夢を見て、子供は朝までぐっすり眠るという点。そして夜に歌声が聞こえるという点。これらはアズーロの街で起こっていることと一致している。
おそらく私が夢の中で感じた失恋の気持ちは、人魚が青年と引き裂かれた時に感じたものなのだろう。
「夢を見るのは水晶がある部屋の中で眠った人間だけだったのですよね。どうして街全体にまで広がってしまったのでしょう」
真白の問いかけに老人は両掌を上に向けて肩をすくめた。それについては彼にも分からないらしい。
アズーロの街に夢を見せている物の正体が水晶玉だということは分かった。だがいまだ解明できていない謎が二つ残っている。
一、なぜ夢の内容が変化しているのか。
二、なぜ水晶玉が影響を及ぼす範囲が街全体にまで拡大しているのか。
私は自分でも気づかぬうちに、この調査にすっかり前のめりになっていた。非日常的な異世界を舞台に、街の人々から不思議な話を聞き取る。なんだか推理系RPGの主人公になったようでワクワクする。
異世界に飛ばされて二日目、私はもうすでにこの世界での生活を楽しんでいた。
「あの屋敷なら、ワシの紹介だと言えば話を聞かせてもらえるだろうよ」黒い蜘蛛を愛おしそうに撫でながらダグラスお爺さんが言った。
私たちは彼に丁重にお礼を述べ、家をあとにした。次の目的地は人魚と恋に落ちた青年の子孫が住む白亜の屋敷である。
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