夜に沈む 6

 目を覚ますと太陽はすっかり昇りきっていた。

 見知らぬ白い天井に一瞬頭が混乱し、遅れて自分がアズーロの宿屋に泊まっていたことを思い出した。


 同室の二人はすでに起床していたらしく、身支度を整えた真白はソファで本を読んでおり、黎はベッドに腰掛けて私の顔を見おろしていた。

「おはよ。かわいい寝顔やったで」

「やめて。かわいくない」私は慌てて掛け布団で顔を隠して言った。

 かわいいという黎の言葉と、寝顔を見られていた恥ずかしさとで私の顔はリンゴのように真っ赤になっていた。


 そもそも寝顔を二人に見られないよう一番早く起床するつもりだったのに、このざまである。二人とも起きているなら、私のことも起こしてくれたっていいのに。

「ええやん、減るもんでもないし」黎が私の掛け布団をぐいぐい引っ張る。「ナーオ、こっち向いて。かわいいかわいい俺の嫁さんの顔をもっと眺めてたいんやけど」

「私の精神がすり減るからダメなの、絶対やだ。ていうか黎、からかってるでしょ」

 私と黎が掛け布団の攻防戦を繰り広げていると、見かねた真白が口を開いた。「黎、あまりナオを困らせてやるな。ナオも起きたのなら支度をしなさい。朝食の時間だ」


 *


 それから十五分後、三人は食堂にいた。

 私たち以外に宿屋の食堂を利用している人はいなかった。

 朝食はアズーロでとれた白身魚と貝とトマト、玉ねぎを煮込んだスープと、ライ麦パンだった。海辺の街というだけあって魚料理は抜群においしい。白身魚は口に入れた瞬間身がほどけ、魚介出汁のうまみが鼻へ抜けた。

 地元の有名なレストランで食べる食事もいいが、眠い目をこすりながら食べる宿の朝食もまた旅行の醍醐味だ。


「噂に聞いていた以上に奇妙な夢だった」

 真白が優雅な仕草でスープを口に運びながら言う。顔だけでなく佇まいまで美しい彼は、街の宿屋でただ食事をしているだけで絵になる。

「それに悲しい夢だった」私が付け加える。

「悲しいっていうより、えらい辛気臭い夢やったで。なんでこんな陰気な気持ちにならなあかんねん、って思いながら海の向こうを見上げとったわ」

「あれはどういう感情だろう」と真白。「悲しいような、それでいて愛おしむような実に複雑な感情だ。あれがいったい何を意味しているのか…」

 黎は三つ目のライ麦パンを頬張りながら大きく頷いている。皿のスープはすでに空だ。

 呆気に取られた私は食事の手を止めて、彼らの姿を見ていた。この二人、本気で言っているのだろうか。


「どうしたナオ。食欲がないのか」

「二人って恋愛とかしたことないの…?」

「現在アナタと絶賛恋愛中やがな」

「私以外の女性とは?」

 食卓に一瞬沈黙が流れる。

「なんや急に。嫉妬か?」

「いや、そういう意味じゃなくて…。恋人に『好きな人が出来た』と言われて振られたこととか。片思いをしていた人に恋人ができて、泣く泣く身を引いたこととか。五百年も生きていれば、そういうの一度くらいはあるでしょう?」

 私の言葉に二人は首を傾げる。その顔には“失恋とはなんぞや”と書いてあった。そして端正な顔立ちの二人は声を揃えて言った。

「一度もない」


 私はスプーンを静かに食卓に置いた。すこし、いやかなり腹が立っていた。やはりこれだけ顔が整っていると、失恋とは無縁の人生を送ることができるのだろうか。

「あの感情は失恋したときのそれよ。好きだった男性に恋人ができた時の悲しみや、恋人の女性への憧れ。選ばれなかったのは悔しいけど、彼には幸せになってほしいという願い。それがあの複雑な感情の正体なの。顔のいい二人には分からないでしょうけど」

 私は腹立たしさにまかせてまくし立てるように言った。彼らには少しもピンと来ていないようだったが。


「なるほど、失恋か」真白が感心した様子で頷く。「ナオは物知りだね」

 物知りだから知っているのではない。たいていの人間は知っているのだ。反論する気も起らなかった私は、すっかりぬるくなったスープを胃に流し込んで言った。「みんな食べ終わったことだし、ダグラスのお爺さんのところに行こう」


「もう行くんか?あと少しゆっくりしてからでもええやろ」と黎。

「そういえばナオは日本にいた頃も、毎朝早くから仕事に行っていたね。だけどここではそんなに急がなくたって誰も怒りはしないよ」

「そりゃそうだけど……。ていうか、どうして真白がそのことを知ってるの?私が社畜だったことって話したっけ」

 すると真白はどぎまぎした様子で目を伏せ、口籠った。急にどうしたんだろう。先ほどまでの飄々とした様子が消え、耳が少し赤くなっている。

 黎が意地悪そうに笑い、黎の肩を組んだ。「かわいいかわいいナオちゃんのことを毎日こっそり見守ってました、なんて口が裂けても言えんよなあ」

「ま、毎日ではないっ。時々だ」真白が勢いよく立ち上がった。彼の顔は真っ赤に染まっている。

「真白って日本に来てたの?」

「いや」と黎。「水鏡っていう、向こうの世界の様子を覗き見できる便利なアイテムがあるんや。それで健気な真白君は、おはようからおはようまでナオのことを見守ってたわけ」

「黎!余計なことは言わなくていい」真白が滑らかな白髪をひるがえし、宿の出口へと歩いて行った。先ほどから私とは一度も目を合わせてくれない。「ダグラスさんのところに行くぞ。早く支度しろ」

 冷静だった彼の動揺振りに思わず噴き出した私にむかって、黎がいたずらっ子のような笑みを浮かべて言う。「ナオのおった世界では、ああいうのをギャップ萌えって言うんやろ」

「プライベートを勝手に覗き見されて、萌えも何もないんだけど…」

 私たちはそんな会話を交わしながら、通りを足早に歩き去って行く真白の後を追いかけた。



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