夜に沈む 3

 それから十分ほど歩いた先に宿屋はあった。

 壁はほかの家と同じように漆喰で白く塗りつぶされており、アーチ状の窓が一階部分に二つ、二階部分に三つ開けられていた。看板らしきものはどこにも無い。事前に知っていなければそこが宿屋だとは気がつかなかっただろう。入口の脇に植わっているブーゲンビリアの樹は、宿を訪れる客たちに“ようこそいらっしゃいました”とでも言うように、ピンク色の紙吹雪を舞わせていた。

 通気性のために開放している入り口からは、老眼鏡をかけた宿屋の主人が熱心に新聞を読んでいる姿がみえた。


 宿に足を踏み入れるとひんやりと涼しい空気が身体を包んだ。熱を通しにくい石造りの家はアズーロのような温暖な地域に適しているらしい。

 主人が視線だけをこちらに向けて言った。「いらっしゃい」

「おっちゃん、三人で泊まれる部屋ある?」

「えっ、三人一緒に泊まるの?」

 驚いた私が尋ねると、真白と黎は二人そろって首を傾げた。その眼には“夫婦なんだから当然だろう。なにか問題でも?”と有無を言わさぬ圧があった。

「いえ…なんでもないです…」

 知り合って間もない男二人と同じ部屋に泊まるのはさすがに気が進まないが、これ以上食い下がっても無駄だろう。私はしぶしぶ受け入れた。


 三人のやり取りを見ていた主人が怪訝そうに眉を顰める。「あまり夜中にうるさくされると困るよ。ついこの間うちに泊まった観光客の夫婦がベッドを壊して、たいへんな損害が出たばかりなんだ。あんたらは大丈夫なんだろうね?」

「もちろんですよ。僕たちは節度ある観光客の夫婦ですから安心してください」“夫婦”という言葉をやけに強調しながら真白が言う。

「あ、そう。だったらいいんだけど。じゃあお嬢ちゃん、ここに三人の名前書いて」

 主人がそう言って私にペンと記入用紙を差し出した。


 私はそれを受取ろうと手を伸ばしたところで、思わず固まってしまった。

 この世界に来る前の、財布を拾ったときのことを思い出してしまったからだ。私の手はペンを受け取ることなく、中途半端な位置で制止してしまった。

 あの夜のように見たくないものが見えてしまったらどうしよう。そんなことはない、大丈夫だとどれだけ自身に言い聞かせてみても、私の手は金縛りにあったかのようにぴくりとも動かなかった。

「おっちゃん、俺が書くわ」黎が横から手を伸ばし記入用紙を受け取った。

 怪訝な顔でこちらを見る主人から隠れるように、私は黎の斜め後ろに移動した。「ありがとう黎」と小声で彼に耳打ちする。

 黎は私の方を振り返り「惚れた?」と言って、いたずらっぽく微笑んだ。


「ところでご主人、ここに泊まると不思議な夢をみることができると聞いたのですが」

「ああ、あんたらも噂を聞きつけてこの街に来たのかい。その夢ならなにもわざわざここに泊まらなくたって見られるよ。浜辺でも路上でも便所でも、この街にいればどこでもね」

「おっちゃん、その夢ってどんな夢なん。詳しく聞かせてや」

「詳しくもなにも、ただ海の底から水面を見ているだけさ。楽しいことなんて一つもない、くだらない夢。そりゃ最初は綺麗だなあ、なんて思っていたけど、これが毎晩続くとなると流石にたまったもんじゃないね。そろそろ夢なんか見ずにぐっすり眠りたい──」

「わたしはそんなゆめ見たことないよ」

 主人の話を遮って店の奥から現れたのは、十歳くらいの金髪の少女だった。彼女は背伸びをしてカウンターの上に両手をのせた。こちら側からは少女の顔の上半分だけがカウンターの向こうから覗いている。くりくりした大きな青い瞳と目が合った。

「見たことないって、一度も?」私が尋ねる。

「そうよ、いちども。ともだちのエリセちゃんもミーナちゃんも、みーんな見たことないって言ってるもん。だまされたらダメよ、おねえちゃん。あのジケンのせいでいなくなったカンコーキャクを呼びもどすために、大人たちがみんなでウソをついているのよ」

「あの事件?」私が尋ねる。

「おねえちゃん知らないの?少しまえに港でカンコーキャクがころされるジケンがあったのよ」

「ああ、そういえば汽車に乗る前に手荷物検査があったな」と真白。「もしかしてその事件のせいで警備が厳しくなっているのかな」

「そうよ。はんにんは、まだつかまっていないからね。おねえちゃんたち、気をつけたほうがいいよ」

「コラッ、お前は余計なことを言わんでいい。外で遊んでこいと言っただろう」主人は少女をむりやりカウンターから引き剥がし、出入り口の方へと押し出した。

 少女は主人にむかって「べーっ」と舌を出すと、白いスカートの裾をひるがえし、まぶしい通りの向こうへ勢いよく駆けて行った。ブーゲンビリアの絨毯が白いつむじ風に巻き上げられて舞い上がる。


「うちの孫がすまないね。年のわりにませているせいか、すぐ大人の会話に入りたがる」主人は老眼鏡を押し上げて言った。腹立たしげに、けれどどこか愛おしそうに。「この街にいる人間がみんな同じ夢をみるというのは嘘じゃないよ。みんな参っているんだ。私の目の下のクマを見ればわかるだろう」

「子供たちが夢を見ていないというのは本当なんですか?」と私。

「信じられんがそうみたいだ。うちのいちばん末の孫はひどい夜泣きで困っていたんだが、街の人間があの夢を見るようになったその日から、ぱったり夜泣きがなくなったらしい。ほかの兄弟たちも寝返りも打たないほど熟睡するようになったと娘が喜んでいたよ」


「うーん」黎が天井を睨み腕組みをする。頭から生えている大きな耳がピコピコと動いていた。どうも彼は考え事をすると無意識に耳が動くらしい。「大人は夢を見るのに、子供はぐっすりか…理由がさっぱりわからん」


 その通りだ。大人と子供で夜に体験することがまるで違っている。この二つの間にどんな意味があるというのだろう。海の底というのになにかヒントが隠されているのだろうか。

 私は顎に手をやって考え込んだ。気分はすっかり名探偵だった。

 よくあるチート異世界転生ものならば、このあたりで私のずば抜けた推理能力が開花しそうなものだが、現実はそう甘くはないらしい。どれだけ考えてみても、その理由はさっぱりわからなかった。


 主人が新聞をとじて私の顔をちらりと見た。彼の節くれだった指はカウンターをトントンと叩いている。頭に浮かんでいるなにかを言うべきか言わざるべきか悩んでいる、そんな感じだった。

 たっぷり間を取ったあと主人は口を開いた。「じつはな…、あれは祟りだと思っている」

 彼の声のトーンは先ほどよりも低く、表情もいくらか強張っている。異世界の人たちも祟りや呪いといった非科学的なことを口にするのに抵抗があるのだろうか。それとも逆に信じているから、あまり口にしたくないのだろうか。


「何の祟りですか?」と真白。

「人魚だよ。あの水上汽車ができたせいでアズーロの近海では人魚をぱったり見なくなっただろう。きっと住む場所を追われた人魚の恨みがこの街の人間を苦しめているんだ」

「せやけど水上汽車が走るようになったんは、もう何十年も前の話やろ。なんで今さら」

「だが私はあの夢の中で歌声を聞いたんだ。海の中で歌声が聞こえるとしたら、それは人魚以外いないだろう…。きっと積もり積もっていた彼女たちの恨みがなにかの拍子に爆発して、それでこんなことになっているに違いない…」

 主人は話しながら自分の説に自信がなくなってきたのか、最後のほうは声が尻すぼみに小さくなっていた。主人は気恥ずかしさを誤魔化すように咳払いをし、わざと大きな音をたてて新聞を開いた。


「その説には僕は何とも言えませんが、歌声を聞いたというのは興味深い。あなたの言う通り、人魚と関連がありそうだ」

 真白の言葉に主人の顔がぱっと輝いた。おそらく自分の説に耳を傾けてくれる相手がいたことが嬉しいのだろう。彼は開いた新聞をまた閉じ、カウンターから身を乗り出した。「そうだろう、そうだろう。あんたもこの説に賛成してくれるか。じつはなダグラスの爺さんも私の考えを支持してくれたんだ。きっと人魚の仕業に違いないって」

「いや、賛成するとまでは言っていないが…」と真白。

「ダグラスのじいちゃん?おっちゃんの知り合いか?」

「ダグラスは街のはずれで暮らしている元漁師の爺さんさ。ちょっと変わり者だが、この街の歴史については奴の右に出る者はいないよ」

「ぜひそのご老人に話を聞きたいので、くわしい住所を教えてもらえますか」

 真白がそう言うと主人は顔の前で手を振った。「教えるのはいいが、今日は行っても無駄だよ。ここ最近、昼と夜の間はいつも山の中でコウモリのケツばっかり追いかけているから。明日の朝いちばんに行けば会えるだろう」

「コウモリなんか捕まえてどないすんの?」

「ペットにして家の中にいる害虫たちを食べさせるんだと。変人の考えていることは分からんよ」

 主人は簡単な地図を書いて寄越してくれた。私たちは彼にお礼を言い、部屋に向かった。


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