プロローグ 3

「妻って…、奥さん、女房、ワイフ…?」私は目をぱちぱちさせながら訊き返した。しかも聞き間違いでなければ彼は、“僕たち”と言っていた。

 真白が微笑んで頷く。「僕たちの妻、あるいは奥さん、女房、ワイフになってほしい。というよりも、ならないといけない、の方が正しいかな」


「話がまったく見えないんですけど…」

「さっきナオのお母さんがうちの家で働いてたって言うたやろ?」と黎。

 そういえば街の風景に驚かされてすっかり忘れていたが、彼らの話が正しければ、私の母親はこの世界に住んでいたことがあったのだ。


「コハルちゃんはもともとこの世界の住人で、十五の時からうちで働いとったんやけど。まあいろいろあって十八歳の時に、同じくうちで働いていた男の使用人と恋仲になって、二十歳でナオを出産したんや。

 で、その後0歳やったナオを連れて日本に旅立った。お母さんから父親の話は聞いてないか?」

「一度も聞いた記憶はない。というかお母さんが異世界の住人だったことも初めて聞いた」

 私には物心ついた時から父はおらず、母ひとり子ひとりの母子家庭で育った。もちろん異世界ではなく、日本にある小さなアパートの一室で。親戚はおらず母だけが唯一の肉親だった。

 思い返してみると、母は私に父親の話や生まれ故郷の話をしてくれたことは一度もなかった。てっきり父とひどい別れ方をしたので、思い出したくないのだと思っていたのだが…。


「どうしてお母さんはお父さんを置いて日本に行ったの?」

「ナオのためだ」真白が答えた。「生まれたばかりの君は心臓に重い疾患を抱えていた。残念ながらこの世界では医療が発達していない。けれど日本に行けば君の病気を治すことができる。

 そこで君のお母さんは僕たちに頼み込んだんだ。娘を助けるために、自分たちを日本に送ってくださいと。

 僕たちは彼女の願いを聞き届け、特別な術式を用いて母娘を日本へと送った。

 だが残念なことに僕たちの力では二人を送るのが限界だった」


「それじゃあお父さんは今もこの世界にいるの?」

 私の言葉に真白は眉間に皺をよせ、悲しそうに首を振った。「君たちを日本に送った直後に、病気で亡くなってしまった。彼は妻子のことを心から愛していたから、君の成長した姿を見たらきっと泣いて喜んだだろうね」

「そう…」あらためて自分はひとりぼっちなのだという事実を告げられた寂しさはあったが、父親が死んでいたことに対する悲しみはあまり感じなかった。一度も会ったことがなかったせいかどこか他人事のようだった。


 気まずい空気を察したのか、黎がやけに明るい声で言った。「で、二人を日本に送る時にコハルちゃんと契約したんや。ナオを助ける代わりに、ナオが大人になったら俺らのところに嫁入りさせるって」

「どちらかじゃなくて、二人と結婚するの?」

「そら俺ら二人で頑張ったわけやし。ナオとの結婚を賭けて二人で血みどろの争いをしろって言うなら、話は別やけど」

「…そんなこといきなり言われても困るし、元の世界のこともあるから、はいそうですかってわけにはいかないよ。一旦家に帰ってじっくり考えてから答えを出す、というのは駄目かな」

 私がそう言うと、黎が思い出したように手を叩いた。「あ、言い忘れてたけど日本には帰られへんで」

「えっ」

「君たち母娘を日本に送る時に使った術式は、一度往復したら消滅する仕組みになっていたんだ。前回と今回のトリップで使い切ってしまったから、もう帰る手段はないよ」

「でも神様なんだから、なんとかできるでしょ?もう一度その術式を作り直すとか」

 私の言葉を聞いた黎は笑いながら手を振った。「むりむり。人間を異世界に飛ばすのってめちゃくちゃ大変やねんで。コハルちゃんとナオを日本に送る時に妖力を使い果たしてしまったから、もう何もできんわ。神様って言うてるけど、今はその辺の人間とたいしてスペック変わらんで」


「というわけなんだが、ナオはどうする?」真白が私の方に身を乗り出して尋ねる。太陽の光を反射させ、きらきらと輝く彼の青い瞳には人を魅了する不思議な魔力があった。

 私は思わずハイ、結婚しますと元気よく返事しそうになるのを堪えて言った。「だけど結婚って、お互いのことをある程度知ってからするものでしょう。お見合いですら趣味や仕事の話ぐらいは言及すると思うんだけど…」

「そらナオの言う通りや。俺の生い立ちから趣味、特技、好きな食べものに至るまで、ぜーんぶ話して聞かせてあげたいのは山々なんやけど…。あいにく俺らは今から仕事で田舎の孤島に行かなあかんくてな。汽車の時間が迫ってるから、そういう話はまた今度でええかな?」

「もちろん結婚の話も今すぐに決める必要はない」と真白。「僕たちは一週間ほど家を空けるから、その間にじっくり考えて答えを出してくれれば──」

「ちょっとまって、いま仕事でどこに行くって言った?」

「田舎の孤島やけど。アズーロって名前の、海に浮かぶ長閑な小さい島。それがどうしたん?」

「二人は仕事であちこちを飛び回る生活をしているの?」

 私は不思議そうな表情を浮かべて頷く二人の顔を見た。


 正直、二人ともものすごく整った顔立ちをしている。まるで漫画の世界からそのまま抜け出してきたかのようだし、部屋の雰囲気から察するに彼らの住んでいるこの屋敷はそうとうな豪邸だろう。

 顔もよくて資産もある。すべてを投げうってでも彼らと結婚したいという女性がいたっておかしくないレベルの、いわゆるハイスぺ男性だ。

 それに先ほど真白に抱きしめられたとき、黎の耳を触ったとき、彼らの身体から私の指先に流れ込んできたのは、私への深い愛情だった。黎の気持ちの中に若干の罪悪感が混じっていたのは少し気になるが、彼らが私を妻に迎えたいという気持ちに嘘はないはずだ。


 もしも今日本に帰れたとしても、上司に無断欠勤を責められ同僚からは冷たい目で見られ、いつものサービス残業の日々に戻るだけだ。

 それならばいっそのこと心機一転、生まれ変わったつもりでこの異世界を謳歌するという選択肢もありかもしれない。

 そして何より、彼らは仕事であちこちを飛び回る生活をしている。つまり彼らの出張について行けば様々な場所を旅行できる、ということだ。日本にいた頃は、どれだけやりたいと思っていてもできなかった旅行が、この異世界では思う存分できるのだ。


「あの」私は姿勢を正して彼らに向き直った。決心はついた。「その結婚、喜んでお受けさせていただきます。ただし」

 驚きと喜びが入り混じった表情でこちらを見つめる二人にむかって、私は言葉を続けた。


「その出張に私も連れて行ってください!」

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