プロローグ 2

 目を覚まして真っ先に視界に飛び込んできたのは見知らぬ天井と、おかしなコスプレをした男の顔だった。

「お、やっと起きたんか」艶のある黒い髪をオールバックにした男が私の顔を覗き込んで言う。


 やや吊り上がり気味の目と口元から覗く白い八重歯、右目の下にあるホクロ。芸能人にも劣らない整った顔立ちの彼の頭からは、犬のような大きな黒い耳が生えていた。いわゆるケモ耳というやつだろうか。よくみると彼の腰のあたりからは、ふさふさした尻尾も生えている。一体なぜそんなコスプレをしているのだろう。


 私は上体を起こし周囲を見回した。

 十畳ほどの広い和室に敷かれた布団の上に私は寝かされていたようだった。右側にある障子窓からは柔らかな陽の光が差し込んでいる。ウグイスの鳴き声と街の雑踏の音が部屋の外から聞えてきた。正面には隣の部屋とこちらの部屋を仕切るシミひとつない白い襖があり、その上に設けられた松をかたどった美しい欄間が、ここが普通の家でないことを示していた。


 見れば見るほど奇妙な空間だ。たしか電車の中で突然まばゆい光に包まれて気を失ったはずなのに、なぜこんな高級老舗旅館のような場所で私は寝かされていたのだろう。

 誘拐…にしてはあまりにも間が抜けすぎている。


「あなたは…?」

「俺は黎や。よろしくな。全然起きへんから心配したで」関西弁の男はにっと笑うと、顔を襖の方に向けて呼びかけた。「真白っ、ナオが目え覚ましたで」


 彼の呼びかけとほぼ同時に襖が勢いよく開き、現れたのは白髪の美しい顔立ちをした男だった。

 男の柔らかい長髪は襖を開けた時の勢いで、肩から胸元へと日の光を煌めかせながらさらさらと落ちていった。冬の湖のような青い瞳は大きく見開かれ、色素の薄い透き通った肌がわずかに紅潮していた。

「ナオ…っ」男は唇を震わせて私の名を呼んだ。そして勢いよくこちらに駆け寄って私の身体を抱きしめた。「会いたかった」

 桃の花のような香りが私の鼻をかすめた。遠い昔に嗅いだような懐かしい香りである。


 そこではっと我に返った私は慌てて彼の身体を押しのけた。

「ちょっと、なんですか突然?!」

 知らない男性、しかも外国人モデルのような美しい男性に突然抱きしめられたせいで、心拍数が一気に上昇していた。「ていうか二人とも誰なんですか?!私はついさっきまで電車にいたはずなのに、どうしてこんなところに。いったいここはどこで、あなたたちは誰なんですか」動揺のせいで私の口からは矢継ぎ早に質問が繰り出された。


 黒髪の男と白髪の男は一瞬呆気にとられたあと、二人で顔を見合わせ、怪訝な顔で首を傾げた。まるで私がおかしなことを聞いたとでも言うように。

「ナオ、まさか母親からなにも聞いていないのか」と白髪の男。

「いったい何の話ですか…」

 私の言葉を聞いた白髪の男は「そうか」と眉間に皺をよせ、黒髪の方は「まあ、お母さんが亡くなったんはナオが高校生の頃やから、話してなくてもしょうがないか」と肩をすくめた。


 たしかに唯一の肉親である母親が亡くなったのは、私が高校三年生の頃のことだが、なぜこの男が知っているのだ。

「あなたはお母さんの──」

 黒髪の男が私の言葉を手で制した。「あなたじゃなくて黎。で、こっちのロン毛の方が真白。敬語は使わんでええよ」

「でも初対面の人にタメ口は…」と拒絶しようとした私だったが、二人の有無を言わさぬ無言の圧に負けて、しぶしぶ頷いてしまった。顔が整いすぎている男二人に見つめられるのはかなり居心地が悪い。

「…黎はお母さんの知り合い、なの?」


「俺らがナオのお母さん──コハルちゃんと知り合ったんは、今から三十三年前。彼女が十五歳の頃、俺の家に住み込みのメイドとして雇われたのがきっかけや」

「三十三年前…ということは、二人は子供の頃に母と知り合ったってこと?」てっきり二人は私と同じくらいの年齢かと思っていたので意外だった。実年齢よりも若く見えるタイプなのかもしれない。それに母がメイドをしていたというのも初耳だ。

 私の質問に真白が首を振った。「いや、その当時僕らはもう大人だったよ。詳しい年齢は忘れたが、五百歳とすこしの時だったと思う」


「ごひゃく…?」私は呆気に取られて彼の言葉をおうむ返しにした。聞き間違いだろうか。変なコスプレをしている黎はともかく、真白までこの状況でおかしな冗談を言うような人だったとは。「変なこと言わずに、ちゃんと答えてほしいんだけど…」

 私がそう言うと、真白は苦笑しつつ頭を掻いた。


「すまない、先にこの世界のことを話しておくべきだった。ここはナオのいた世界とは異なる世界線に存在する場所だ。異世界、と言った方がわかりやすいかな。昨日の夜、電車に乗っていた君はとあるきっかけでこの異世界にトリップしてきた」真白が障子窓の方を指さした。「信じられないなら、あの窓の外を見てみるといい」

「異世界って…そんなものあるわけないでしょう」

「まあまあ、そう言わんとそこの障子開けてみ」

 黎にうながされた私はしぶしぶ立ち上がり、障子窓に手をかけた。


 いったい私はなんの茶番に付き合わされているのだろう。実はどこかに隠しカメラが仕掛けてあって、ドッキリ大成功と書かれた札を持った人間が、飛び出す機会をうかがっているのだろうか。


 私はそんなことを思いながら障子を開き、そして「あっ」と声を上げた。

 この部屋は二階にあったらしく、窓からは立ち並ぶ家々の瓦屋根が見えた。家はどれも木造建築で、現代的な造りのものは一つもない。映画村に行ったときに、江戸時代の街並みというのを見たことがあったが、目の前に広がる風景はまさにそれだった。


 だが私を驚かせたのは、その歴史の教科書に載っていそうな古い街並みではない。眼下の通りを歩く人々──いや、異形の者たちの姿だった。


 向かいの家の“呉服屋”と書かれた看板の前で打ち水をしている着物の女の顔には、本来あるべき鼻や口などのパーツがなく、その代わりに大きな目玉が一つだけ顔の中心に鎮座している。通りを歩いているのは緑色の肌の河童や、角を生やした赤面の鬼、二足歩行で歩く大きな化け猫のようなものなどなど……。

 通りを歩く者たちのなかには人間もいるが、いわゆる妖怪と呼ばれる異形の存在の方が数が多い。

 ろくろ首が長い首を伸ばして私たちの部屋の窓を覗き込み、それから歩き去って行った。

 そいつともろに目が合ってしまった私は「きゃっ」と悲鳴を上げて尻もちをついた。


「これで信じる気になったか」黎が私の隣に座り言う。

「この異世界では人間や妖怪、神などのさまざまな種族が共存しているんだ。僕らのような五百年以上生きている長命な生き物もね」


「補足すると、この世界に住んでるのは日本風の妖怪だけちゃうで。

 俺らがおるこの地域──ヒノモトに住んでるのは妖怪と人間が主やけど、よその地域には、外国の化物…例えば吸血鬼とか狼男とかドラゴンとか。ほかにもエルフや、半分獣で半分人間の獣人なんかが住んでる所もある。

 ま、アメリカ合衆国もびっくりな種族のるつぼってわけ」

「あまりにもフリーダムすぎない?」

 妖怪だけじゃなく獣人やエルフまでいるなんて、漫画でもなかなか見ないレベルの、節操のないめちゃくちゃな世界だ。まるで世界観の設定を絞り切れなかった素人作家が『この際だからなんでも盛り込んでしまえ!』とやけくそに盛りに盛った末に出来上がった異世界のようではないか。

 それとも、異世界にも多様性の時代がやって来ているのだろうか。


 私は黎に向き直り言った。「ここが異世界ということは、その耳も作り物じゃなくて本物?」

「そやで。触ってみるか?」

「遠慮しておく──…、あ、やっぱりちょっとだけ…」

 私は差し出された黎の耳におそるおそる手を伸ばした。大きな耳はふさふさした柔らかい毛に覆われており、触り心地は犬や猫の耳とほとんど変わらない。私は彼の耳を触りながら訊いた。

「これって犬の耳?」

「いや、狼。ついでに言うと俺は狼の神様で、真白は白蛇の神様や。だから五百年以上も生きてるわけ」

 私に耳の後ろを掻かれた黎が目を細めながら言った。動物も神様も耳の後ろを掻かれるのが好きなのは共通らしい。


「それで、神様が私に何の用なの?」

 私の質問に答えたのは真白だった。「君に僕たちの妻になってほしいんだ」

「──はい?」


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