振り上げた手を止めて

田山 凪

第1話

 夜中のリビングでひたすら薬を分けていた。横文字だらけの薬の名前はいまだに覚えられない。十五年前に私がこんなことをするなんて思いもしなかった。世の中にそういうものがあるとは知っていた。だけど、まさか自分がその渦中に巻き込まれるなんて想像できるはずもない。

 一番ひどい時に比べればまだマシなほうだけど、マシだからこれ以上マイナスにならないように臆病になっているのも否定できない。この状態を変えるためにはきっと大きく刺激を与えるしかないのかもしれない。素人の私には現状維持が精いっぱいで、その現状維持が彼女を苦しめていることも理解している。

 ただ、私も同じように苦しんでいる。この苦しみを共有し一緒に考える人がいない。あの人は都合のいい時だけ関わってきて、なんでだ、どうしてだ、バカみたいだ、と状況を理解してないくせに勝手なことばかり言う。

 共に選んで彼女を生んだのに、どうしてそこまで関わらずにいられるのか理解できない。いや、理由はある。だけど、大人なんだからそろそろ吹っ切ってほしい。それに、そのことは彼女だって気にしている。私だって同じ。


 彼女が小学生のころ、私は最低なことを言った。彼女がひきこもり始めてから、最初はただ単に体調が悪いのだと思っていたけど、だんだんとただの体調不良じゃないとわかり、サボるな甘えるなと怒鳴ってしまった。

 怒鳴ったのは結局近所からの目を気にしていたからだ。住宅地なのだからすぐに周りに広まってしまう。買い物を行くときにも視線が気になる。子連れの姿を見ると胸が締め付けられる。まだ彼女は部屋から出れらないのかと。


 次第に部屋からは出られるようになり少しだけ安心した。確実にいい方向に行っている。ポジティブに考えていこう。

 

 無理やり学校へ連れて行こうとしたことがある。これも今思えば最低だ。でも、私にだってどうすればいいかわからなかった。学校へ行けば何か気持ちが変わるかもしれないと思った。でも、これさえも親としての傲慢さなのかもしれない。

 そして、私はついに一番やっちゃいけないことをやろうとした。彼女を叩こうした。だけど、未遂に終わった。正確にはお姉ちゃんが妹のために身代わりになった。お姉ちゃんの体はおそろしく軽くて、体をテーブルにうちつけた。子どもの体はなんて脆いんだと、私は大人の力で全力で叩いたことに後悔した。

 私が心配する前に彼女が駆け寄って、お姉ちゃんごめんと何度も泣いて言った。

 あなたがそんなんだから手が出たのに、どうして私だけが悪者にされてしまうんだ。もうこのころからだんだんと気持ちの整理がつかなくなっていた。


 そんな時、ようやくあの人も時間がとれて四人で旅行に行った。二人とも元気で楽しそうで、毎日こんな風だったらいいのにって。でも、そんな期待は一瞬で崩れた。

 誰も悪くないそう思いたいけど、実際は親の不注意だ。観光地で二人とも浮かれ気分だったし、彼女はお姉ちゃんと一緒に知らない場所で周りの目を気にせず過ごせるから、とても開放的だった。

 私がトイレで手を洗って戻る直前、何かぶつかるような音がした。急に嫌な予感がして外に出ると、お姉ちゃんがトラックの下敷きになっていて彼女は呆然としながら涙を流していた。あの人も救急車を呼んでいたが助からないことは誰の目にも明らかだ。

 私はそんな光景を見ながら現実味を感じることが出来なくて、何も言えず、動けず、その光景を見ていた。


 それからだ。彼女が泣く時、お姉ちゃんと連呼するようになった。今まではどうして引きこもっていたのかわからない。だけど、お姉ちゃんがいてくれたから徐々に活動的になっていった。

 なのに突如としていなくなって、彼女にとってもつらいだろうに、お姉ちゃんと言いながら泣き叫ぶたびに私はイライラしていた。

 絶対言ってはいけないのに、あなたのせいでしょって。

 彼女はまた大きく泣いた。

 私は私を母親として保つことができず、あの時みたいに手を振り上げて大人の力で叩こうとした。この手を振り下ろせば当たる。逃げもしない泣き叫んでいるこの状況に一矢報いるような気分だった。

 なのに、手が振り下ろせない。

 誰かが全力で私の手を抑えているみたいに微動だにしない。


「……そこにいるの」


 見えない。感覚もない。

 だけど、私が手をあげたらダメなんだと思えたのはお姉ちゃんが身代わりになったからだ。あの時と同じ感覚が蘇る。まるで、お姉ちゃんが全力で私の手を止めているようだ。

 私は膝から崩れ落ちた。高ぶった感情から同じ過ちを繰り返そうとして、そのことに気づいて、涙が溢れた。望んで生まれてきた子なのに、この子の幸せを願うことが出来なくて、抑えきれない感情をぶつけそうになって、私をいったい何をしているんだ。


 私が涙を流していると、彼女はゆっくりと近づいて「大丈夫? 私がいるから」と、まるで親のように優しい言葉で包み込んでくれた。

 思い出した。いつだって彼女が辛い時、お姉ちゃんが私の代わりに慰めていた。その小さな体で優しく抱きしめ、ゆっくりと頭を撫でて、おちつくまで声をかけていた。本当は私がするべきだったのに、それが親の役目なのに。

 

 今思えば、いつだって優秀なお姉ちゃんを褒めていた。それが素晴らしいことだと競争心を煽るようにしていたけど、できないことを押し付けそれが常識だと語るのは、なまじ長く生きている大人側の無責任の押し付けだ。

 子どもたちは純白の心をもってこの世に来てくれた。私が教えなきゃいけないんだ。この世界は怖いところじゃないって、あなたを受け入れてくれるところがあるって。

 私は何度も謝った。お姉ちゃんが止めてくれたから、お姉ちゃんが彼女にしてあげたことが、私が過ちを見つけるきっかけになった。

 

 きっと、彼女を見ていると過去の自分を見ているようだったんだろう。私は小さいころとても泣き虫で、すぐに大声で泣く。だからお母さんからよく怒鳴られた。心配してほしいのに、構ってほしいのに、だけど怒られた。

 あんな風にはならないようにしようと誓ったはずが、いつのまにか同じことをしていた。

 

 あれから、私は彼女と向き合い私自身とも向き合った。これから先いつまで彼女があの状態なのかわからない。だけど、前よりは気持ちが楽になった。しっかりと話せるようになったし、できることとできないことを少しずつ理解できるようになっていた。

 私をベースに彼女を見ちゃいけない。同じ血をわけているけど、違う人間だ。分身のように考えてしまうからできないことに対して苛立ちを覚える。こう思えるまでに時間がかかった。

 今日も、彼女が唐突な衝動で飲みすぎないように薬を分ける。同じ作業の繰り返しだけど、一歩ずつ、ゆっくりだけど進んでいることがわかる。彼女ができるようになったことをしっかり見てあげて、遅くても進めていることを認識し、また明日が始まる。


 大丈夫。

 私はもう手をあげない。

 この手は叩くためじゃなく繋ぐために使っているから。

 

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