第19話 極致
その日の午後、慌てて参上したサリエリ新聞の記者ベルナルドの前で、クリスは再度ケリーへ質問をした。
ケリーはさっきと同じように、クリスをアデーレ様と呼び、「ええ、クリス様は間違いなく女の子ですよ。姉君たちと比べるのも申し訳ありませんけれどね、クリス様ほど愛らしい姫様はいませんでしたよ」と、ワーグナー国へ嫁いだカトリ王女の話を嬉しそうにしたのだった。
「お前は忘却病のケリーの話を裏付けとして、俺が女だという記事を書いたんだな」
「はい……」
一通りの話を聞き、ベルナルドはガックリ肩を落とす。まさか乳母が忘却病だとは夢にも思わなかったそうだ。
「今頃になって記事が誤りだったと訂正しては、新聞社に大損害を与えることになるな。お前と支局長はどうなるかな。解雇されるだけでは足りず、一生かかっても払えないくらいの賠償金を請求されるんじゃないか?」
うなだれたベルナルドの頭が更に下へ下がる。首に巨大な岩石でも乗っているようだ。
机に肘をついたクリスは、とっておきの秘密を発見した子供のように目をキラキラさせた。
「そこでだ。俺が一つ手を貸してやろう。お前たちの独占取材にしてやるから、カメラマンもついて来い」
エリーゼとユアンもついて行くと、行き先はユアンとフレデリクが対峙していた人気のない部屋だ。北側なので日当たりがあまり良くないが、何もない白い壁に向けて照明が煌々とたかれている。
いきなり、クリスが上を脱ぎ出した。
「殿下っ……⁉︎」
ユアンは慌て、エリーゼは裸の背中に見入ってしまった。
「すごい! まるで彫像のような筋肉ですね。さすが王子だ」
カメラマンが嬉々として構える。
クリスは素肌の上にノースリーブの生成り色のブラウスを身につけた。素材はまろやかなシルクだろう。だが胸元は大きくV字に開き、脇も腹が見えるくらいに緩いスタイルだ。腕を上げたり角度によっては胸が露わになってしまう。
だがクリスは全く恥じることなく、カメラマンのリクエストに応じて次々とポーズを決めていく。ブラウスの間から露わになる腹筋は六つに分かれて筋が入り、胸は膨らみなのか大胸筋なのか分からない。
中性的な体に対して、上腕や前腕の隆起と筋肉の筋が、女性のエリーゼの目には肉感的に映る。
流線型に目尻が少し上がった瞳が放つ強い視線には、後ろめたいものなど微塵もない。うっすらと生える髭を剃った跡をメイクで消せば、怜悧で端正な顔は男性にも女性にも見えるのだから不思議だ。
男とか女とか、そんなものは超越した人間の美の極致だった。
「お美しいわぁ」
うっとり見つめるエリーゼだが、隣のユアンは生きた心地がしないようで、「ひぅっ……」と喉を鳴らして顔を反らしたり、ちょこまか動いて落ち着かない。
「一体いつの間に鍛えていらしたのかしら。あっ!」
ここしばらく、寝室に来るのが遅かったり、会話をする間もなくすぐ眠ってしまっていた。まさか筋トレで疲れていたせいだったとは。
撮影が終わるとエリーゼは駆け寄った。
「素晴らしかったですわ! お美しすぎて言葉になりません。芸術です」
「世界中の誰より、君がそう言ってくれるのが俺は一番嬉しい」
腰をグイッと引き寄せられ、唇にキスされていた。密着するといい匂いがして、纏う空気まで演出されている。やわらかい唇に
「わたし、その衣装知っていますよ。アレックス・ステュワートでしょう?」
「すごいじゃないか。でも残念、これはバーバラ・ローレンだ。世界中から注文が殺到していて、なかなか受注してくれないのだぞ」
「ええっ、せっかく覚えたのにまだあるのですか⁉︎」
王子の顔と半裸は、新聞の一面に大迫力に掲載された。厳選写真は全部で八枚あり、中にはエリーゼとの完璧な角度のキス写真もある。記事には『撮影中も片時も離れない仲睦まじい夫婦』と書かれていた。
この号外は通常の三十倍も刷られたが、それでも取り合い奪い合いで瞬時に完売したという。
後日、サリエリ新聞社の社長と支局長がお礼の挨拶に参上した。
「この度は我が社に独占取材の機会を頂戴し、誠に恐悦に存じます。つきまして売上の八パーセントを献金させていただきたいのです」
「そんなものは要らん。お前たちから貰うと、またろくでもない事が起こりそうだ」
「しかしそれでは——」
社長の言葉を遮って、クリスが拳を机に叩きつける。
「どれだけ稼がせてやったか、末端の記者にまでしっかり広めて還元しろ。二度と俺を怒らせるなよ」
妖艶な笑顔で凄んだのだった。
腰を低くして帰っていく二人を見送り、その夜、夫婦の寝台でエリーゼとクリスは笑い合った。
「これで何年かはおとなしくなるだろう」
「殿下の勇気をわたしは心から尊敬します」
「君のおかげだ。妻になったのが君だったから俺は勇気を持てたんだ。本当だぞ」
「そういうことをさらりと仰るのはずるいです」
「ふふっ。ダンは言えないだろうな。あいつは昔からシャイだったから」
「家具のことを話す時だけは饒舌なのですよ」
「へえ。ちょっとサンドと似てるな」
「そういうところは変わっていないですか?」
「うん。八歳か九歳の時だったか、国中の川の名前と長さを覚えて俺に教えてきたことがあった。夢中になると極端に周りが見えなくなるみたいだな」
自分の知らないダンの姿を知るのは嬉しいし、クリスが過去のことを気兼ねなく話してくれるのも嬉しい。
クリスは体をこちらに向けて、エリーゼの背中へ腕を回した。
「君がイーサンまで連れてきてくれるとは思いもしなかった。感謝している。本当に俺はついてるな」
鼻先が触れ合いそうな距離で、心が触れ合えている幸せ。それは確かなのに、エリーゼの目から涙が一粒こぼれる。
俺はついてる。
クリスは何度もそう言ってきたが、果たして本心なのだろうか。そう言い聞かせているだけで、自身に対して最も大きな嘘をつき続けているのではないのか。
不意に広がった胸の曇りをクリスに悟られないよう、顔をうずめて目を閉じた。
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