第18話 ユアンの土下座
イザベラ夫人を迎えて、ベスと共に三人でテーブルを囲む。エリーゼの客間には花台や
「一つ一つに思い入れがあるし、眺めているだけで少し幸せになれるの。自己満足なのだけどね」
「好きなものに囲まれて過ごすのが一番ですわ。私もケーキを作る間は何もかも忘れられますもの」
「わかるわ。最近フレデリクはどうなの?」
近衛隊長を懲戒免職になったフレデリクは、しばらく自宅にこもり荒れていた。妻子が離れに避難しなければならぬほど酷かったらしい。それでも秘密を守り続けたのは、彼のプライドなのだろう。
「ようやく今は落ち着いて、庭師に教わりながら庭園の草刈りや養蜂を始めましたのよ」
「まぁ」
「あのフレデリク殿が。人は変われるものですね」
ベスが呟き、ケーキを頬張る。
「夫人、今日もとってもおいしいですっ」
丸顔が本当に幸せそうで、エリーゼも夫人も笑ってしまった。今日は生地にもクリームにもいちごを練り込んだ、目にもかわいいピンク色のロールケーキだ。
「妃殿下に言われたのが効いたのでしょう。私に対しても、作るなとは言わなくなりましたもの」
「それは良かったわ! これからますます作ってもらわなきゃね」
「エリーゼ様、これ以上私を太らせないでくださいな。最近マットからも言われてしまいましたし」
「そういえばあなた、求婚の答えはどうするの? マットは新しい近衛隊長に大抜擢されたのだし」
ベスはフォークを置き、自分の手に視線を落とした。
「宮廷に出仕して、貴族の子息と出会って結婚するのが勝ち組だと思っていたんです。私の母は、離縁されて惨めな人生を送ってきました。だから絶対にああなってはいけないと。姉もそう教えられてきたはずなのに、ある時船乗りと駆け落ちして旅に出てしまいました。バカなことをと思う反面、羨ましくて」
ベスの瞳が少し潤んでいる。
「お金持ちと結婚するのだけが幸せなんでしょうか。本当は私だって好きに生きてみたいんです。だからあんなに素敵な王子様と結婚して、更に自由にDIYをしているエリーゼ様に嫉妬していました。失礼な発言は心からお詫びします」
「ベス……。話してくれてありがとう」
「ブルーデネル邸でのエリーゼ様は、本当にご立派でしたわ。私はこの方についていくと決めました。まだまだお世話させていただきますよ」
その言葉に、エリーゼの胸が熱くなる。
「ええ、頼りにしているわ。肥える時は一緒よ」
「そのお言葉、嘘じゃありませんね?」
ベスはそう言って、厚くなってきたお腹をポンとしてみせた。
「妃殿下は今度は何を作られているのですか?」
夫人に聞かれると、エリーゼは軽快に席を立ち、バルコニーへ出る大窓を開ける。
「これよ!」
古くなってひび割れたり、錆跡や黒ずみが落ちなくなったバルコニーの床材を剥がし、白や黄色、水色、青、赤など色とりどりのモザイクタイルを貼って装飾しているのだ。
「まだ全体の三分の一しか出来ていないのだけど、これが完成図よ」
頼まれてもいないのにスケッチブックを取り出して説明を始めるので、ベスは苦笑だった。
「完成したらここでお茶会をしましょうね」
「では私もモザイクタイルに合わせたケーキを考案して参りますね」
女子三人で野望を語り合い、翌日は朝から検診日だ。今回から侍医ではなく助手のサンドが担当する。
「体重が回復されましたね。ずっと減り続けていらしたので心配しておりましたが、安心です」
「ケ、ケーキの食べすぎかしら……」
「妃殿下はよく動いていらっしゃいますから、バランス良く召し上がれば問題ありません。お菓子も食べすぎというほどではないと思います」
それから下瞼の裏を見たり、舌の色を見て、聴診器で胸やお腹の音を確かめた。
「月経は順調ですか?」
「それが嫁いで最初に来たきり、次が二か月来ていないの。これってもしかして……、妊娠なのかしら」
ダンとの関係は秘密だ。だからもしそうなら一体誰の子だという疑問がまず浮かぶはずだが、サンドの表情は変わらなかった。
「環境の変化や、身の回りのストレスで月経が一時的に止まる事もあります。妃殿下には激動の三か月間だったのではありませんか。性交渉の影響でも女性の体は変化しますし、もう少し様子を見ましょう。次回の検診は一か月後ではなく、半月後でいかがでしょうか」
「ええ、わかったわ」
問診中のサンドはこんなに流暢に喋るのに、ふと廊下で会って話しかけると「わっわわわわたし何かしてしまいまいましたでしょうかあぁ⁉」と別人のようになるのだった。
「ねぇサンド、あなたは一人で秘密を抱えて負担ではないの? わたしはこの三ヶ月間、言ってしまえたらどんなに楽だろうと、数えきれないほど思ったわ」
ワンピースの前ボタンを閉めながら、なるべくやわらかい声と表情でエリーゼは話しかけた。
「わっ、私はっ、いいい医学書を読んでいると何もかも忘れてしまうんで……バカなんです」
「バカなんてことはないわ。全てを忘れて没頭できることがあるって、生活がとても豊かだと思うの」
「おっ同じ年頃の人たちとは、てんで話題も関心も合わなくて、ととと友だちもいませんし。私なんかに話を合わせてくださるのは、ロナルド先生とひっ、ひひっ妃殿下だけです」
「合わせようとなんてしていないわ。これからも相談させて頂戴ね」
エリーゼが笑いかけると、サンドは膝に額を激突させるまで腰を折った。
医務室を出ると、向こうからずんぐりした女性がユアンに付き添われてやって来る。
「妃殿下。検診は終わられましたか」
「ええ。ケリーも一緒に、どうかしたの?」
「母がおかしなことを言うので、先生に診てもらおうと連れてきました」
ユアンは少し焦っているようだった。クリスの乳母のケリーは、ユアンの実母でもある。
「ケリーが。どうかしたの?」
「おやセリーナ様。ピアノのレッスンはどうしたんです? さてはまたおさぼりになったんじゃありませんよね?」
「いいえ、わたしはエリーゼよ」
「エリーゼなんて王女様はいませんよ。私がお育てしたのはカトリ様とセリーナ様に、アデーレ様とクリス様ですから」
「え……」
エリーゼと音節は似てはいるが、セリーナもアデーレもクリスの姉の名前だ。
どう返答しようか困っていると、この後検診を受ける順番のクリスがやって来た。
「久しいなケリー。どうかしたのか?」
「これはアデーレ様。馬の世話ばかりしていないで、お勉強もきちんとなさいませ」
「ん……?」
クリスは大きく目を瞬く。
「わたしのことはセリーナ様だと」
「私のことはハミルだと言うのです。ハミルは母の弟なのですが」
すかさずエリーゼとユアンが言うと、話し声を聞いてか、サンドもドアを開けて顔をのぞかせた。
「ケリー、俺は誰だ?」
「アデーレ様、ケリーをからかうのはおやめくださいませ。まだ
「じゃあクリスはどうしたんだ?」
「クリス様はとっくにワーグナー国へ嫁がれたじゃありませんか。私が育てた姫君はみんな愛嬌のある美しい方たちでしたが、中でもクリス様はとびきり可愛らしくて。ワーグナー国の殿様がとてもお喜びでしたのを、昨日のことのように覚えていますよ」
「……姉君のカトリ様のことですね」
ユアンが小声で呟く。クリスは頷き、何かを確信したようだった。
「教えてくれケリー、クリスは女の子か?」
「ええ勿論でございますよ。ところでアデーレ様、もしやセリーナ様と喧嘩なさったんですか? またいたずらを仕掛けて叱られたのでしょう。いけませんよ」
ケリーははっきりした口調ではきはきと喋っている。表情や仕草だけを見れば何ら異常はないが、自信たっぷりに滅裂なことを話すギャップに、全員唖然とした。
「忘却の病だと思います。記憶と妄想が混同しますが、ケリー様にとってはそれが現実なのです。加齢の過程で発症する、原因不明の病です」
サンドが静かに告げる。
それを聞いたユアンは両膝を折り、床に額をつけた。
「大変申し訳ありません殿下、どうやら母が新聞社へ——」
「それ以上言うな。ケリーのせいではなく病のせいだ。それより、サリエリ新聞の記者とカメラマンを呼べ。すぐに来るようにとな」
クリスはキラリと瞳を光らせた。
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