第17話 高貴な男と下賤な男

 立ち上がったフレデリクの顔は、血が上り赤黒い。一歩、二歩とエリーゼへ迫るごとに、額の血管が浮き出てくる。

わめけばどうにかなると思っているのですか。これだから女というのは。その点、殿下はさすがでしたよ。黙って私を受け入れましたから」


 その言葉はエリーゼへの切り札だったのだろう。数万本の針で体中を刺されたように総毛立ち、これ以上ない純粋な憎しみが内側から湧き出る。フレデリクの綺麗な顔をめちゃくちゃに引き裂いてやりたかった。

 どう足掻いても今以上にはなれないこの男は、鬱屈した欲望を、クリスを凌辱することで発散したのだ。


「あなたを絶対に許さない!」

「おやおや、妃殿下に何ができますか? 殿下が私を告発するとでも? それはできないでしょう」


「ユアンは気付いて、あなたと争いになったのね」

 彼が真実を言えなかったのは、クリスの秘密に関わるからだ。地下牢では常に衛兵の目と耳がある。面会時にそれに気付いたエリーゼは、今日までのベスとの打ち合わせにも慎重に言葉を選ばなければならなかった。


「子供の頃からずっとそばにいるくせに、先に手をつけない方が間抜けなんですよ」

 ククッと喉を鳴らす。誰も味わったことのない秘密という美酒に憑りつかれた、悪魔のような笑い顔だ。


 次の瞬間、大きな体がのしかかってきて、ソファに倒され身動きが取れなくなる。声を上げようとすると、汗ばんだ手のひらで口を覆われた。叩いて抵抗したところで、相手は軍人なのだからこたえる様子がない。

「先ほど私に、君主にはなれないと言いましたね。しかし私は無理でも、私の子は王になれる」


 至近距離で瞳を覗き込んでくる顔。怖気が走る。声量をグッと落としてフレデリクが囁く。

「あなたが産めば、父親は誰だろうとその子は王位継承者だ。元々外から種を調達する予定でしょう? ならば私にチャンスをください」

 息が顔にかかり悲鳴を上げたが、くぐもった音にしかならない。スカートをまくられ、膝上の靴下止めまで露わにされた。


「震えてるじゃありませんか。散々偉そうなことを言って、こうなるとは思わなかったと? だから女は浅はかなんだ。殿下はあなたのために私へ身を捧げたのですよ」

 まさか、フレデリクの脅迫とは!

 エリーゼの震えが恐怖から怒りへと変わる。


『殿下が応じないなら妃を対象にしますよ』

 試合の時に囁いたに違いない。そして夜になり、人気のない場所へ誘い出したのだろう。

 許せない。秘密を共有する存在として、クリスはこの男を信じていた。それを歪んだ欲望で踏みにじるなんて!


「ああ、そういえばあなたも下賤な男の真似をして家具など作っていましたね。そんなに下等種と同類になりたいですか。理解に苦しみますね」

 言う間にも力ずくで膝を割り、体を間にして押さえつけてきた。


 こんなの、欲望ですらない。畑に苗を植えつけるのと同じだ。しかも正式な妻が同じ屋根の下にいるというのに。こんな男に力ずくでされて、従うしかないのか。

 怒りと悔しさで涙が止まらない。抵抗できないのは、精神ではなく腕力で劣るから。あまりに単純すぎて、エリーゼの体から抵抗する気力が抜け出てしまった。


 体なんてもういい。でも心はくじけないし、この人になど屈さない。決して——!


「そういうのはちゃんと、部屋の鍵を閉めてした方がいいですよ。あれ、でも衛兵が常にいる貴族の屋敷には、扉に鍵なんてないんでしたっけ」

 男性の声だ。フレデリクが舌打ちする。

「何者だ」


「ホワイト工房です。クリス王子より修理のご用命を受けまして。ここへ受け取りに行くようにと」

 ダンの目はギラギラして、今にもフレデリクへ飛びかからんばかりだった。


「フレデリク隊長、それは決して許されません」

 その後ろにはマットと二人の近衛隊員もいて、眉間をしかめている。証人として密かに呼ぶよう、ベスに頼んでいたのだ。


「これはだな、妃殿下も同意のことだ。妃殿下のためにもくれぐれも殿下には内密に——」

「ふっざけんな! 泣いてるじゃねぇかよ! 嘘吐きがッ!」

 怒りのままダンが壁を蹴飛ばす。足音も荒く駆け寄り、エリーゼを奪うように抱き寄せた。マットも隊長を庇うことはなく、奇妙な沈黙は冷たかった。


 帰りの蒸気車に乗り込むと、半泣きのベスがギュッと抱きついてくる。

「まさかあんなことをされるなんて! 私は寿命が三十年縮まりましたよ! 最っ低最悪な男!」

「ええ。でもダンが来ていたとは知らなかったわ。あなたも?」

「もちろんですよぉ! 殿下さすがですわ」


 それから、フレデリクとクリスに起こったことをベスにも伝えた。ただしそれは「男性同士の行為」としてだ。彼は卑劣な男だが、クリスの秘密だけは巧妙に暴露を避けていた。新聞社へリークしたのは彼ではないだろう。


 王城へ戻ると、全員が見聞きしたことを国王の御前で報告した。クリスも望まぬ「男性同士の行為」をさせられたと告白した。その結果、ユアンの傷害の罪は帳消しとはならなかったが、国王の酌量で五日間の自宅謹慎処分となった。


 夕方になり居室へ戻ると、心配顔のクリスに肩と両腕を優しく撫でられる。

「間一髪だったな。聞いているこっちが心臓が止まりそうになったぞ」

「すみません。殿下が月を見に出て遅くなった夜、わたし、なんとなく気付いていたんです。でも、どうお声をかけていいか分からなくて。何もできなくてごめんなさい」


「俺は男だから。俺のために怖い思いをさせてすまなかったな」

 ふるふるとエリーゼは頭を振った。あの夜、信じていたものに屈辱を与えられたクリスは、体も心も深く傷ついていたはずだ。それなのに、エリーゼには自分の気持ちを一番に考えろと思い遣ってくれた。


「わたし、殿下のこともダンのことも同じくらい愛しています」 

 ストレートな告白に、クリスは少しはにかんで「俺もだ」と頷いた。

「あいつも心臓が潰れるところだったろうな」

 部屋の隅には、ダンが直立している。


「あの、オレ、帰った方がいいっす——」

「イーサン」

 クリスはつかつかとダンの前に進み、そして頭を下げた。

「感謝している。今のことも、過去のことも」

「殿下っ! そんないけませんって!」

 おろおろしているダンの肩をグッとつかんで、耳元に口を寄せる。


「ちゃんと部屋の鍵は閉めろよ、ダン」

 世界中の女子へ恋の魔法をかける眩しい笑顔で囁き、クリスは部屋を後にした。エリーゼとダン、二人だけを残して。


「おっ、王城こそ部屋に鍵なんて無いでしょうに、殿下はなァに言ってるんですかね。ハハハ」

 ダンの声が裏返っている。

「あるのよ。わたしの寝室には」

「え?」

「殿下は最初から、わたしに恋人を作って幸せに暮らせと。だからきっとそのために」


「ええっとぉ……」

 無意味に前後左右を振り返るダンだが、誰かいるはずもない。

「えっととりあえず隣、座ってもいいですか?」

 ソファに腰掛ける。二人の間には握り拳三つ分ほどの隙間しかない。近いわとドギマギしていると、手が重ねられた。


「そういや、椅子のカバーは縫いあがりましたか?」

「えっ、ええええ。あの椅子は一つ殿下にプレゼントしようかと思っているの」

「あれ? 読書会用に並べるんじゃなかったんですか?」

「そのつもりだったけれど、あなたがわたしにしてくれたように、わたしも殿下に何かしたくて。ご迷惑かしら」


「殿下に限ってそんなことはねえでしょう。いいですね。……妬いちゃいますよ」

 ダンの方を向くと、彼もこっちを見つめていた。鼓動が高まり、体が熱くなる。愛を確かめ合いたいと、互いに同じ気持ちでいる。

 わたし、初めてなのにどうしてわかるのかしら。


「いいわよ。妬いても」

 それから目を閉じて、恋の甘さにとろけるようにキスを求め合った。

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