第15話 化けの皮
尋常でない叫び声に、行李箱を運ぶダンと親方の足が止まる。
「どうしたの? 今のは何?」
「わかりません、けど近いです」
「他に誰もいないなら出してちょうだい」
箱が下ろされると、エリーゼは飛び出した。
「たぶんあっちの奥からでしたぜ」
「あっ、エリーゼ様、危険ですって!」
この階にはクリスとエリーゼ夫妻の居室や執務室が並んでいる。
ドアを開けていくと、三つ目の部屋でエリーゼは信じられないものを目にした。
「ユアン……⁉︎ フレデリク隊長!」
壁に押し付けられた格好のフレデリク。近衛隊の赤いランサージャケットに、ユアンの持つ剣が突き刺さっている。左肩の金色の房飾りの下だ。苦悶の表情でフレデリクがユアンを睨みつけていた。
ユアンの目は血走り、般若の形相だ。まぎれもない殺意にエリーゼの足がすくむ。
悲鳴を聞いた近衛兵や召使が次々に集まり、「隊長!」と声をあげて救出にかかった。駆け寄ってきたベスも部屋の中を一目見て、エリーゼの腕にしがみつく。
「エリーゼ様っ……、なんなのですか⁉」
あっという間に取り囲まれ、床にうつ伏せに押さえつけられたユアンだが、鬼の表情のまま燃える視線はいつまでもフレデリクから離さない。
一方、応急処置を施されたフレデリクは、睨みつける視線が徐々に蔑むようなものへ変わった。
「くっ……ククククッ、クハハハハハハハッ! アッハハハハハ!」
そして痛みに歪んだ顔のまま、引きつれたような声を発した。
「見ての通り、こいつは私を殺害しようとした! サリエリ新聞に証言をしたのはお前だろうと、私に指摘された途端にだ。おい、一体いくらで取引をした? 殿下が女などという虚言をあたかも真実のように売り渡し、宮廷に混乱を招いた張本人がこいつだ!」
「違う! 断じてそのような——」
ユアンは抵抗しようともがいたが、取り押さえた兵士たちに、言葉ごと上から潰される。
「言い逃れをするな! 事実を突かれて激高し凶行に及んだのだ。目の前にぶら下げられた小金と怒りに支配されおって。二度も愚行を自制できぬとは愚かなことよ。所詮は貴族といえ三流の血筋だな。近衛隊長として命ずる。即刻地下牢へ繋げ。陛下のご判断を待つ必要はない」
「はっ!」
「フレデリク、貴様! そのような出まかせをよくも!」
「おい黙れ! 勝手に口を開くな!」
なおも抵抗するユアンに、兵士たちは殴りつけ踏みつける。光景だけ見れば、いち従者に過ぎないユアンが身分の高い近衛隊長へ狼藉をはたらいたと言えるが、ユアンがそんなことをするなど到底信じられなかった。
「エリーゼ様……怖いです」
腕を掴んでくるベスの手が震えている。エリーゼは肩を抱きしめてやり、背中をさすった。
クリスは今日、遠方での式典出席のため帰りは遅くなる。
殿下が不在の今、わたしがしっかりしなきゃ。
殴られて鼻血を出したまま、兵士に取り囲まれたユアンが連行されていく。フレデリクも治療のため医務室へ向かうと、集まっていた者たちもそれぞれの持ち場へ戻っていった。
最後までぽつんと残ったのはダンと親方だ。ダンは呆然と立ち尽くしている。
エリーゼは進み出ると、しっかりとダンの目を見つめた。
「今日はとても楽しかったわ。あなたの心遣いに感謝します。ユアンは誰よりも殿下のおそばに仕え、信頼を得てきた人ですもの。彼がお金のために虚言を吐いたり、理由もなく暴力を振るうなどありえません。そうよね、ベス」
「はっ、はいっ。そうですよ、気が触れたなんてユアンに限ってありえませんもの」
「ですからわたしは彼を信じ、必ず真実を突きとめてみせます」
静かに言い放つ。市井の嫁のような木綿の服を纏っていても、声色やすっと立つ姿には王太子妃の威厳があり、思わずダンと親方は頭を下げてしまっていた。
二人が帰ると、急いで着替えてベスと頷きあう。
「エリーゼ様、ユアンを救い出すおつもりですね」
「もちろんよ。この間の殿下との試合のこともあるもの。あのフレデリクという人、やっぱり怪しいわ。絶対に化けの皮を剥いでみせるんだから」
ユアンはクリスの大切な理解者であり、ダンの兄なのだ。見過ごすことなど到底できない。
「わかりました。フレデリク隊長の方は私にお任せください。直に会えるようにマットを通じて頼んでみます」
「お願いね。わたしはあの時間、何か見聞きした人がいないか探してみるわ」
■□
じめじめして澱んだ空気がこもった地下牢は、ぞっとするものだった。脚がたくさんある大きな黒いゲジゲジ虫が足元を横切り、ネズミの鳴き声もした。悲鳴を上げないよう、奥歯をぎゅっと噛み締めてエリーゼは進む。
そんな場所でユアンとの面会は翌日すぐに叶ったが、当のユアンは何を聞いても「申し上げられません」の一点張りだ。
「お願いだから、あなたまで嘘をつかないでちょうだい。フレデリクが殿下に何かを囁いた日の夜、殿下は月を見に出ていたと仰ったわよね。何があったか、あなたはフレデリクに問いただしたのではないの?」
答えは沈黙だ。
「もうっ、頑固者なんだから!」
部屋に戻るとエリーゼは吐き捨てた。ベスは「一息入れましょう」とティーポットから勢いよく茶を注ぐ。ベルガモットの清々しい香りと、熟れた桃のコクのある甘さが立ち上った。
「事件当時の目撃者もいないのですよね。このままだと、虚言を指摘されたユアンが激高して凶行に及んだというフレデリク隊長の供述が通ってしまいそうです」
「そうよね。肝心なのは、なぜあの二人が人目につかない部屋で会っていたかよ。美味しいわ、このお茶」
「ありがとうございます。ユアンは居てもおかしくないですけれど、フレデリク隊長は呼ばれない限りあの部屋に出入りすることはありませんものね」
「だからユアンが隊長を呼び出したと考えるのが妥当だけど、そこを話そうとしてくれないのよね」
二人が向かい合う小ぶりなティーテーブルも、エリーゼの手作りだ。脚はダンとナタリー兄妹が作ってくれ、天板は切って削るところからエリーゼが加工した。オバンコールという縞状模様の美しい木材で、円形の外周は濃い茶色にし、内側にかけてグラデーションになるよう、何度も塗料を塗り込んでは磨いたのだ。
「侍女仲間にフレデリク隊長の奥様と女学校時代の同級生がいて、フレデリク隊長のことを聞いてみたのですけどね、実はひどい方みたいなんです」
「そうなの?」
「奥様は内務大臣のご息女で、お二人の間には子供もいるんですけど、家では暴君のように振舞うらしくて。奥様に向かって『お前の卑しい血と低俗さが子供に伝染するから治してこい』なんて仰るとか」
「へ……? 血を治して?」
聞き間違いかと思ったが、二度目もベスから同じ単語が発された。
「元々はカトリ王女——殿下の姉上がお好きだったみたいで、熱心にアプローチしていたんです。けれど国王陛下が結婚をお許しにならなくて、カトリ様は外国の王家へ嫁がれました。それでお父上の勧めで今の奥様と結婚されたのですけど、きっと納得していないのでしょう。奥様は貴族ではありませんし」
「だからといって、妻へ卑しいなんて言うものではないわ」
「まったくです。マットが言うには、取り調べが終わればぜひエリーゼ様を邸宅へお招きしたいと仰っているそうですよ」
「望むところよ。こちらは明日でも明後日でも構わないと伝えてちょうだい」
エリーゼはぐいっと茶を飲み干した。
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