第9話 礼拝堂の聖女
エリーゼが工房に来なくなって二週間が経つ。
「あんな記事が出たから……」
騒ぎを持ち込んでは良くないと遠慮しているのだろう。たぶん記者も待ち伏せている。
やはりコーヒースタンドで話していた記者を止めるべきだったのだ。あの時に戻れるのなら、今すぐに追えと自分の尻を蹴飛ばしてやりたい。
記事には王子の身近で裸を知る者が証言と書かれていた。更に情報の出元はエリーゼとする別の記事も見た。読んだその場で新聞を破り捨てたが、もしやエリーゼが責められているのではないか。
「あるわけねぇだろうが。あんなに仲良いんだからさ」
王子が予告なしに工房に現れた時、エリーゼは心底喜んでいた。決してダンには向けない、輝くような笑顔で頬を染めたのだ。なのに彼女が嘘の証言などするはずがない。
今どうしている?
つらい目に合わされてるんじゃないか?
「あーあーあぁ? 大の男にため息ばっかりつかれちゃ、こっちがたまったもんじゃないよ。心配なら行ってみりゃいいじゃんか!」
言いながらナタリーがスケッチブックを投げつけてきた。
「痛ってえな! ……なんだこれ、椅子のデザインか」
エリーゼが次は椅子を作りたいと言っていた。
「その中でどれが好きかエリーゼ様に聞いてきてよ。それにきっとエリーゼ様もデザイン画作ってるはずだから、もらってきて」
「行ったって会えるかどうかなんて分かんねえぞ?」
「だから? 行きもしないうちに先に心配してどうすんの?」
ぐうの音も出ない。仕方なくキャスケット帽を被ると、ナタリーに蹴り出されてしまった。
王都アスティは、人も街もいつもと変わらない。エネルギーが伝統と混ざり合い、花の都と呼ばれる華やぎを今この時にも生み出している。店舗が入れ替わり、淘汰され、残ったものは洗練されていく。生活費は安くない。けれどもここに残りたい。そう思わせるだけのものがこの街にはあり、常人離れした美貌の王子の存在は、まさにそれを象徴しているといえる。
衛兵が目を光らせる王城の受付で妃殿下への謁見を申し出るが、妃殿下は誰にもお会いにならないとにべもなく断られてしまう。しばらく粘っても変わらなかった。
仕方なく帰ろうとした時、衛兵の一人と目が合った。
「あれっ、あんたエリーゼ様とよくうちに来てた衛兵だよな?」
確かマットと呼ばれていた男だ。ダンが近づくと、男はちょっと気まずそうに目を逸らす。
「なあ、エリーゼ様はどうしてるんだ? やっぱり落ち込んでるのか? それとも何か罰を与えられたりしてるのか?」
「しっ、知らん! 俺がそんな内部のことを知るわけないだろう!」
「でも城の中に出入りしてるし、近衛兵は王子と王の直属だろ? 何か情報はないのかよ?」
「殿下は通常通り公務をされているが、妃殿下は外部の予定はキャンセルされている。それしか俺には分からん」
「エリーゼ様が悪いことなんてするはずねえし! あんたもそう思うだろ? なあ?」
「だから俺は知らんと言ってるだろう! しつこいな!」
「あんたもあの記者見たから分かるよな? 決めつけて強引に引きずり込んで言葉尻を取りやがる野郎だったろ。絶対あいつが卑怯なことをしたに違いねえ」
「……確かに卑怯な奴ではあったな」
「あんたは横で見てて助けようともしなかったけどな」
「妃殿下は誠意をもって応対されていた。それを俺の一存で邪魔するわけにはいかない」
なにが誠意だ。逆手に取られた結果がこれなのだから、骨折り損のくたびれ儲けだ。コーヒースタンドで記者を野放しにした自分への怒りがまた湧いてきた。
マットがスケッチブックに視線をやる。
「それは何が描かれている?」
「これか、デザイン画だ。エリーゼ様がきっと楽しみにされてる」
スケッチブックを開いて見せると、「少し待て」と城内へ入ってしまった。
少し離れたところの衛兵と目が合い、にっこり笑ってやり過ごす。
十五分ほど待たされただろうか。いい加減待ちくたびれた頃、ようやくマットが戻ってきた。
「妃殿下がお待ちだ。ついてこい」
小声で告げると、門の壁に沿って歩き始める。延々続く壁沿いを十分ほど進んだところで小さな木戸にあたり、マットの姿がするりと消えた。慌ててダンも続く。
用水路として使われる小さな堀にかかる橋を渡り、鬱蒼とした茂みの横を通り抜け、塔の入り口から入る。地下に下りて右をいって左に曲がりまた上がり、迷宮に連れ込まれたようだ。
入れと促されたのは、居住する王族のみが使用できると思しきごく小さな礼拝堂だった。木を組んだ天井が、灯りを木洩れ日のようにやわらかく反射している。
「ダン、よく来てくれましたね」
「エリーゼ様っ! お元気でしたか? 大丈夫なんですか?」
二週間見ないうちに、ふっくらしていた頬が少し痩せてしまった気がする。
「こんなところでごめんなさい。誰にも会ってはいけないと陛下から言われていて、外にも出られなくて」
「エリーゼ様、早速ですがこれを見てください。ナタリーが描いたものです。どれがお好きですか?」
「まあ、どれも素敵」
スケッチブックを広げると、エリーゼが笑顔になる。
「この肘掛け、とても美しいわ。手触りまで想像できる。こっちの背もたれもいいわね。木目の美しさを存分に楽しめるし、横から見た時のカーブが優美でしょうね。ああ、迷う! 思い切って形をそろえないで使うというのはどうかしら?」
「そろわない均整ですか。そういう発想はありますよ」
「そうよね! いいわよね! この椅子は読書会で使いたいのよ。皆さんにそれぞれ気に入った椅子に座ってもらって……いいわ」
想像したのだろう。エリーゼのしたり顔に、思わずダンは吹き出しそうになる。
この方は本当に楽しんでいる。
「わたしもデザイン画を描いてみたの。ナタリーの参考になるかしら」
「拝見します。……ナタリーが描いたのと似てますね。イメージぴったりじゃないですか」
「そうよね! でもしばらく工房には行けそうにないの。何か、この城の中でもわたしにできることはあるかしら?」
「椅子は布張りにするでしょう? 生地は手配できますか?」
「そうね……、ええ、できると思うわ。布張りとクッションを縫えばいいのね!」
「それです! 布張りの型紙はお届けしますんで、まずお好みの生地を選んでください」
「分かりました。その分料金も安くできるわね」
エリーゼの目に光が戻る。わくわくしている証拠だ。
「エリーゼ様、その、新聞記事にはエリーゼ様が暴露したって書いてありましたけど、オレはそんなの信じません。あの記者のことを怖がっているのを見ましたし。それに、記事が出たのはオレのせいかもしれなくて……」
「どういうことなの?」
「コーヒースタンドで記者らしき男が話しているのを聞いたんです。でもオレその時何もしなくて。あの時ぶん殴ってでも止めていたら、こんなことにならずに済んだかもしれないのに。本当にすいません」
「ダン……、あなたのせいじゃないわ。優しいのね」
エリーゼが微笑む。礼拝堂の清らかな空気も相まって、まるで聖女だ。今、この瞬間、この笑顔はオレだけに向けられたと思っていいだろうか。
「エリーゼ様が嘘をつくはずがありません。王子が女だなんてありえない」
だがエリーゼの視線は下を向いてしまった。それから「ありがとう、ダン」と小さな声で呟いた。
裏門の木戸から外に出されても、エリーゼのわくわくした顔と、不安げな顔が頭から離れない。
どこにも外出できず、誰にも会えないと言っていた。閉ざされた城の中で常に疑惑の目を向けられると想像したら、気がおかしくなりそうだ。
何かオレにできることはないのか?
「そうだ、うん、これならできる!」
ダンの頭の中で一つの計画が練り上がっていく。見つかれば処罰されるかもしれない。けれど彼女の笑顔を取り戻すためなら、何も怖くはなかった。
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