第7話 デミタスコーヒー
翌日、完成した机と本棚を納品しに来たダンは、ぽかんとしてエリーゼを見ていた。
「エリーゼ様、一体何をなさってるんですかい?」
「見てわかるでしょう、モールディングを施しているのよ。あっ、そこ、曲がっているわよ。右をもう少し上に。そうそう」
モールディングとは壁面の装飾をいう。ちなみに執務室の壁紙も、前回呼び出されて参上した時とは変わっている。
「前は濃ゆい緑色に花や鳥が描かれた感じでしたよね?」
「ええ。あれは古くて少し剥がれていたので、思い切って新しくしたの。でも腰壁は替えるわけにいかなくて。汚れていたからモールディングをつけようとしたら、職人に頼むとすごく高いのね!」
「それでご自分でってわけですか」
ちょっと長かったわねと、その場で小さなのこぎりを取り出して、足で踏んで支えてガシガシ切り始めた。
曲線を描いた複雑な模様ではなく、直線の枠で囲ったシンプルなものだ。しかし細かい部分は丁寧に削り出されている。親しそうに話をしているのが、たぶん宮廷大工の親方だろう。ここでもエリーゼは職人に好かれているようだ。
「この壁紙の色、どうかしら?」
「と、とっても良いと思います! ほうれん草のクリームシチューみたいなグリーンが特に」
「えっ?」
「ああいやっ、うまそうな色だってことです!」
この例えはまずかったか。しかしエリーゼは花びらのような唇で笑ってくれた。
「ダンっていつも面白いわね。この壁紙、机の色とピッタリだと思うの。ほらっ!」
手作りの白く塗ったモールディングで飾った腰壁に、白っぽい色合いの
「うん! 良い机だ!」
「もう、あなた家具しか目に入らないのね」
こんな風に、エリーゼががツッコんでくれることも増えてきた。ずっと一緒についていたナタリーはもちろん、職人連中もみんなエリーゼのことが好きだ。
「ダン、少し時間はあるかしら? 見てほしいものがあるのだけど」
「大丈夫ですよ。何です?」
と連れられたのは、妃殿下の私室だった。しかも侍女がいない。ごくプライベートな部屋に二人きりだ。こういうの、良くないんじゃないだろうか。
「このドレッサーがガタついていて。今はこれで高さを調節しているのだけど」
ダンが作った
右奥の猫脚の下から小さな木片を取ると、ガタガタいいだした。四本脚の下に潜って、下から見上げて確かめる。
「これはネジが緩んでるのと、あとこの継ぎ目のところがもう弱くなってますね。脚ごと替えた方がいいかもなぁ。ドレッサーって鏡がとにかく重いじゃないですか。だから後脚に負荷がかかるんですよ」
「脚だけ替えたら色が変わってしまうわね?」
「全く同じってわけにはいきませんが、木材加工やニスを塗ったりして近づけるのはできますよ」
「本当? これだけ装飾があると全部塗り直すというわけにはいかないものね。ダンになら任せられるわ」
オレになら。ダンの心臓が跳ね上がる。
「この箪笥も本当に素晴らしいわ。この閉じる時の音がいいのよ! ねぇわかるでしょ?」
そう言って引き出しをちょっと開けて、閉めてみせた。コンという低い音とともに、どこも引っ掛かりなくスッと収まっている。ダンがミリ以下の単位で調整したのだ。
だがそれより何より、今チラ見えしたレースやツルッとしたのはもしかして下着じゃないのか? こういうのってやっぱり良くないんじゃないか⁉︎
ダンは一歩、二歩と下がった。
「ねぇダン?」
「はっ、ヒャいいっ!」
エリーゼは不思議そうな顔をして、行きましょうと部屋を後にした。
王城を出て、やっとダンは生きた心地がした。なんだか疲れてしまい、すぐ近くのスタンドでコーヒーを注文する。
今日は王城に参上するからと、既製品だが新しいシャツを買ってきたのだ。それにエリーゼが工房に来た日から、作業着をまめに洗濯するようになっていた。
「……バカか、オレは」
妃殿下なんだぞ。しかも夫はあのクリス王子なんだぞ。
ここのコーヒーは濃くて、苦味を楽しめそうにない。
デミタスカップの取っ手に親指を入れてグッと握ると、熱さが手のひらから伝わる。それでこのやり場のない気持ちを燃やしてしまいたかった。
「……ここだけの話だ。ついに証拠が出たんだよ」
「確かなんだろうな?」
「ああ。王子をよく知る人物からの証言だ」
低く、ボリュームを抑えた声。しかしダンの耳にはなぜかよく聞こえた。
あの新聞記事か?
そっと周りを伺うが、それらしい二人はいない。どうやらコーヒーを買って外に出て行ったようだ。
「悪い予感しかしねえじゃんか」
王子をよく知る人物の証言って何だよ。浮気か?
エリーゼを傷つけるようなことは絶対に許せない。新聞記事も、たとえ王子であってもだ。
だがその思いも虚しいものだと、濃厚なコーヒーの香りがあざ笑った気がした。
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