《得意分野》

そして2時間ほど経った頃、やっと九合目に着いた。この調子ならなんとか頂上まで持つはずだ。僕は淡い希望を持ち、なんとか足を動かす。もはや、足とストックの区別はつかなかった。

その時、ポツッと不吉な音が耳に届いた。上の人の唾だろう。いや、そうであってくれ。僕は天に祈りを捧げた。もちろん汚いからそれも嫌だが、まだマシだ。雨よりは。気温は5度近く、風もかなり吹いている。この状況で雨など、考えたくもなかった。

しかし5分後、天は無慈悲にも僕の捧げた祈りを拒否し、雨を降らせた。いや、降らせてきやがった。ただ実際は天に敵意を向ける暇は無く、必死で奥にしまってしまった合羽を取り出し、風に飛ばされないように慎重に身につけた。なんとか無事に合羽を着れたが、高所の雨と風は想像以上の寒さだった。中にジャンパーを着ているにも関わらず、それらは僕を襲った。

寒い。息苦しい。帰りたい。僕の頭にはリタイアの文字が浮かんできたが、リタイアしようにも帰るには自力しかない。それにもうここまで来たのだ。覚悟を決めて、僕は山頂を見据えて登っていく。

山頂まで残り200メートルの地点まで登ってきたが、ここからは山小屋までのような岩場が続く。ただ、200メートルならすぐだろうし、全然平気だ。

などという甘い見積書は富士山には通じず、一瞬にして突き返された。登って行っても全く近付いていない気さえした。今まで、100メートル走など楽だと思っていたが、もしかしたらあれは10メートル走だったのではないか。僕らは騙されていたのだ。

意味の分からぬ言い訳をしていると、次第に歩みは遅くなり、友人との差が開いている。なんとか追い縋り、また離され、追い縋ることを繰り返していると、鳥居が見えてきた。まさか、と思ったが、そのまさかだった。僕らは無事に登頂できたらしい。

僕は拍子の抜けた声を溢す。

「え、頂上?」

「らしいな。」

一足先に、一歩先に登っていた友人が答えた。

気づけば雨も止んでいた。


時計を見ると、4時45分。ご来光の予想時刻は5時15分なので、30分以上あった。

幸運にも僕らは最高の場所に座ることができ、ご来光を待つことにした。ただ、頂上の寒さは想像以上で、ジャンパーの上に合羽を着ていても体が震える。友人もかなり厚手のジャンパーを羽織っているが、震えは止まらないらしい。こんなこともあろうかと、僕はカイロを持ってきていた。もちろん事前に友人にも持たせていた。ただ開けても全く暖かくならない。もしかして酸素が薄いから酸化反応が十分に起こらないのかとも考えたが、原因を突き止めても寒さは変わらないので止めにした。

そして僕らは震えながら、鼻水を垂らしながらご来光を待った。次第に、地平線の彼方が朱く染まっていく。僕は、かなり綺麗なご来光が期待できるのではと期待したが、暗雲が立ち込めた。これは比喩ではない。実際に、霧が僕らの周りを包んだのだ。辺りは白い靄一色になり、周辺からはため息が聞こえた。僕の落胆を代弁してくれた分、少し落ち込んだ心が楽になった。

ご来光の予想時刻になったが、霧は晴れず、結局ダメか、と諦めて帰ろうとした時、一筋の光が差した。これも比喩ではない。霧が少し赤みがかって、小さくて力強い、朱い丸が姿を現したのだ。おそらく国旗の作成はこれを題材にしたのだろう。

ご来光は八合目からでも見えることがあるらしいが、やはり1番上まで来て見るのは格別だろう。ここに来るまでの過程も相まって、綺麗だった。

雲の上は晴れ。人生、頑張っていればいつか報われる。そんな理想論をたまに耳にするが、実際は残酷だ。どれだけ登ろうと霧が晴れることはなく、ずっと青空を見ることができないことだってある。ただ、それでもきっと、登ることすら諦めてしまうよりは、一度は登ってみた方が良いだろう。例え青空を見れなくても、登り切った時には心が澄み渡っているだろうから。


その後、幻想的なご来光に満足した僕らは富士山を駆け下りた。これも比喩ではない。

僕は当初、下山は登山道を降りていくものだと思っていたが、下山道というルートがあることを知った。そしてどんな景色が待っているのだろうと期待したが、ただの平坦な道だった。そのため、僕らは駆け降りた。

これは僕の得意分野だった。

あっという間に五合目に着き、バスが来るまで3時間以上あった。僕らは屋内で適当に時間を潰していたが、下山してから1時間ほど経った頃、雨が降り出した。しかも小雨では無くそこそこの雨で、長い時間降り続いていた。

今回の登山はかなり天候に恵まれていたと、心の中で天に感謝した。手のひら返し。これも下山と同じく僕の得意分野だ。


登山の疲れもあり、ダラダラと過ごしているとバスがやってきた。

僕らはバスに乗り、離れていく富士山に別れを告げた。バイバイ、富士山。

気づけば深い眠りに落ちていた。

ほぼ1日、眠ることなく登山をしたのだから当然だった。

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