怪談に関する見識録について

猫科狸

怪談に関する見識録

まず、実話怪談と言うもの。

実際に起きた怖い話を人から取材し、文字として興し、怪談話として完成させる。その物語の数は有象無象合わせて半端ない量になっている。

今現在でさえネット、テレビ、本、噂…。数え切れないほどあるでしょう。

実話怪談の体験者という方々は、至って普通の方です。私が知る限りはね。

別に霊感があるとか、普段から他人が見えないものが見えるとか、そんなんじゃないんです。何ならその話以外の怖い体験、不思議な体験なんてしていない人がほとんどです。

私が知る限りの人は、です。

「特別」な人では無くても、この実話怪談というものを体験している方がいるのです。


皆さんは、怖い体験した事あります?

いや、もちろん海で溺れかけた、とか、車に轢かれかけた、知らない人に襲われそうに…とかではなく、いわゆる「怪奇」「心霊現象」の様な、人知では理解できないようなモノの一端に触れたり、感じたり、関わりを持ってしまった事。あります?

中々無いでしょう。かくいう私自身、全くありません。無いんです。


では、今無数に存在しているこの怪談達は、何なのでしょうか?

本当に体験しているのでしょうか?

作り話なのでしょうか?

日々、これだけの体験談が溢れている中、体験者と非体験者の違いってあるんでしょうか?

所謂霊感なのでしょうか?

それとも運が良いだけなのでしょうか?


例として、まずは以下の実話怪談をご覧下さい。


絶対に違う


沖縄出身の宮良さんは小学生の頃、近所に住んでいる独居のお婆さんによく遊んでもらっていた。内向的で友達もいなかった為、毎日のように学校が終わってはお婆さんの家に遊びに行っていたという。

家の庭には、立派なガジュマルの木が植えてあり、遊びに行く度「この木にはキジムナーが住んでるから大事にしないとね」

とお婆さんは言っていた。

ある夏の日、学校終わりにお婆さんの家へ遊びに行くと、いつも庭にいるはずのお婆さんが見当たらない。

「こんにちはー!」

家の中も覗くが居ない。買い物でも行ってるのかと思い、宮良さんは庭先でお婆さんの帰りを待つことにした。

喧しく鳴いている蝉の声を聞きながら、庭で立派にそびえ立っているガジュマルの木をボーっと眺めていると、木の上で何かが動いている。

(お婆さんがいってたキジムナー?)

まさか本当にいるのか、とワクワクした気持ちと、少しばかりの恐怖心が湧いてくる。この目で姿を捉えてみようと、木に近づいて上を見上げた。

木の上に居たのは、子犬程の大きさをした蝉だった。黒く、少しテカリのある身体を震わせ、透き通る羽根を綺麗に折りたたみ、木から生えている何かにむしゃぶりついている。


その何かに気づいた時、全身に緊張が走った。蝉は針のような口を伸ばし、木から生えている人の顔に差し込み、必死に吸っていた。吸いながら、脈打つかの様に、黒く大きな身体を震わせ、尻の先を小刻みに幹に打ち付けている。

あまりの衝撃に、目が離せずにいると、蝉が身体を少し動かした。その隙間から、顔が見える。木から生えているその顔は、お婆さんの顔だった。

宮良さんは弾けるように庭を飛び出し、無我夢中で自宅まで駆け抜け、気付いた時には困惑した顔をした母の膝元で号泣していた。それ以後、お婆さんに

「いつでも遊びにおいで」

と何度か誘われる事もあったが、家に行く事は無くなり、庭先にいるお婆さんの姿を見かける事も徐々に減っていった。

現在、地元を離れ社会人として働いている宮良さんは、当時の記憶も曖昧で、結局アレがなんだったのかは分からないままなのだというが、

「一応今でも確信を持っていることがあって。あれは雌のクマゼミです。アレは絶対にキジムナーではありません。」と話してくれた。




代わられた


田島さんは、幼少期身体が弱かった。父の顔は見たことがなく、母は田島さんを残して他の男と街を出て行ってしまい、一緒に過ごした記憶はほぼ無い。そんな田島さんを育ててくれたのは、祖母だった。寂しさで一日中泣きわめいていた時も、高熱を出して倒れた時にも、いつも側にいてくれたのは祖母だった。


ある日、田島さんは体調を崩し、寝込んでしまった。医者も原因が分からない、とお手上げ状態だった。祖母は、田島さんを少しでも良くしようと、昼夜問わず懸命に世話をしてくれていた。


ある夜、田島さんが目を覚ますと、仏間から声がする。

「お願いします。宜しくお願い致します。」そっとドアを開け、仏間を覗くと、祖母が紙で包まれた、細長い何かを仏壇に置き、手を合わせている。見てはいけないものを見た気がして、急いで布団へ潜り込んだ。不安で眠れずにいると、きいっ、とドアが開き、祖母が部屋に入ってきた。


田島さんが寝たふりをしていると、祖母は、田島さんの髪の毛を一掴みし、ざくり、とハサミで切り取った。更に足の親指から爪を少し切り取ると、そっと仏間へ戻っていった。


翌朝、田島さんは昨日の事について、祖母に聞いてみようとしたが、いつもの優しい笑顔で接してくる祖母を見ると、何故か言ってはいけないような気がして、黙っていた。

その日から、田島さんの体調はみるみる良くなり、見違えるように元気になった。体調が良くなり、嬉しそうにしている田島さんを見て、祖母も嬉しそうに微笑んでいた。


それからしばらくして、祖母は階段から転倒し、足が動かなくなってしまい入院することになった。入院した祖母のかわりに、叔父が田島さんの世話をしてくれていた。

病院へお見舞いに行く度に、祖母は自分の事よりも田島さんの事を気にかけていたという。入院してから一月も立たないうちに、祖母は他界してしまった。


葬儀の日、泣きじゃくっている田島さんに、叔父が聞いてきた。

「これ、前から仏壇にあったか?」

それは、あの日祖母が手を合わせていた細長い紙だった。答えられずに泣いていると叔父は、

「お婆さん、うわばみ様を作ったんだなぁ。お前、代わられたなぁ。成人するまでは絶対に蛇には触れるなよ。」

それ以降、田島さんは場所を問わず蛇を見かけるようになり、無性に触りたい衝動に駆られるのだという。結局、田島さんの何が代わられたのかは未だ分からずにいる。


−−−−−−−−−−−


以上の実話怪談。語ってくれた人物はいずれも普通の方でした。霊体験なんてのは全く無い、普通の人。


これらの話には、所謂幽霊は出てきません。「絶対に違う」の話では子犬ほどの大きさの蝉がいたとの事です。気持ち悪い。

ただ、昔の記憶と言うものは不確実です。正直、誰も証明しようがありません。

もしかすると、この話の体験者は少し大きめの蝉を見ただけかもしれない。木から生えているお婆さんの顔というものも、何かお婆さんの記憶とごちゃ混ぜになっているのかもしれません。だって、普通に考えれば木から人の顔が生えるなんて事は無いのですから。子犬程の大きさをした蝉、木から生える人の顔。皆さんも見たことが無いでしょう?しかし、体験者の記憶には残っているのです。ちゃんと存在しています。


「代わられた」の話には、所謂幽霊、妖怪のようなものは出てきません。ただ、何かしら、得体の知れない力が働いたような、奇妙さを感じます。しかし、体験者の貧弱だった身体が元気になった。蛇をよく見かけるようになって、無性に触れたくなる。これは何かしらの力が働いたのか、もしくはただの偶然ともいえます。祖母が必死に世話をしてくれたお陰で良くなったとも、何かの力が働いたのか、ともとれます。


どちらも共通して言えるのは、

「間違いかもしれない」

ということです。考えようによって、見方によって、検証してみれば、怪談では無いのかもしれません。本当に、存在さえしてないもの。偶然の一致。勘違い。記憶違い。見間違い。解釈違い。

しかし、この実話怪談がその体験者の手から離れ、こうして文章になった時点で、確かに存在する事になる。頭の中、記憶の中だけの事だったものが、実際に、この世の中に、形を持つのです。


認識。これらの話は、私が怪談として発表するまでは、非常に曖昧な存在でありました。ただ、今皆さんと共有することで、確かにこの世界に実在する、認識される怪異となり得たわけです。


認識する人が多ければ、それだけこの世界に、この怪異は実在するということにならないでしょうか。逆に少なければ少ないほど、もしくは記憶から消えた怪異というものは、どうなっているのでしょうか。存在さえも、出来事さえも無くなるのでしょうか。


所謂幽霊、怪談にでてくる幽霊。何を思い浮かべます?

昔はお岩さん、番町皿屋敷のお岩さんだったそうです。誰しもが、その存在を知っていました。有名な足のない、幽霊画など。見たことありませんか?

当時、幽霊は確実に存在していたのです。今はどうでしょう?

皆さんも、幽霊というと何となく思い浮かぶモノがあるのではないでしょうか?


多数の人が思い浮かべる。幽霊のイメージ。もう、それは確実に「居る」と考えても良いのではないのでしょうか?それは曖昧なモノから、確実に、形を得たのです。そして、その存在は確かに、私達と共にいるのです。




いる。


当時、3歳になる娘と公園を散歩をしていたんです。日課でしたので。家から少し歩いたその公園の遊歩道に、小道があったんです。その小道に入ることは無かったんですが。所謂出そう、何かがいそうな場所とかではなく、本当にどこにでもある小道。草が多くて虫がたくさん飛んでるのが嫌なとこ。何時頃からか、その小道を見るたびに娘が、

「見て、いる、いるよ」

と指さして言うようになったんです。何がいるのか聞いても、いるしか言わないんです。やっぱり嫌な気持ちになるじゃないですか。よく聞く、子供は見るってやつ。それからできるだけ、その小道は見ないようにして早く過ぎるようにしてたんですけどね。

ある日、もう本当に昼。暗くて、丑三つ時で、黄昏時で、とかでなく。普通の天気の良い昼間。私も見たんです。それを。そこにしっかりと立っていたんです。髪の長い、ボロボロのワンピースを着た裸足の女。ぱさついた髪を顔の前に垂らし、表情は見えませんが。

明らかに公園に似つかわしくない、見てはいけないモノでした。私は全身の毛穴から何かが溶け出しそうな感覚を覚えながらも、娘には見せないよう必死に公園から走り去ったのです。


翌日。あの女性が逮捕されていました。公園のあの小道で、殺した犬や猫、動物を大量に埋めていたとの事でした。精神的に病んでいたようで、逮捕時も大声で笑っていたそうです。


変質者と遭遇していた恐怖と、あれは人だったのか、とほんの少し安心を覚えていました。当分は公園の散歩を辞めておこうと、娘に話をしていると、言ったんです。娘が。


「いるよ。見て。いるよ。」


小道ではなく、公園の入口を指さして。


何がいるのか聞いてみると、言うんです。


「髪の長い女の人」


って。三歳の娘が。その後は聞くのを辞めました。


娘と私は、どっちをみたんでしょうね。


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