第7話 ∞父のビスケットが教えた六分儀
二人の今日の
「芽紅ちゃんがもう卒業。社会人か」と一色も感激のようだ。
「一色さんには親子共々お世話になって。でも卒業はするけど、社会に出たと言えるのかな?」と長い髪を束ねながら軽い会釈をする。
「いやいや、お世話になったのはこっちだよ」と大きくかぶりを振って、彼女の言葉を打ち消す一色。
「お父さんは、ここのチキンライスが大好きだったのよ」
芽紅は沙織にメニューを見せて笑う。
「おじさん、いつもお子様みたいな物食べていたよね。目玉焼きとか、チャーハンとか、ハンバーグとか……」
沙織も笑っている。近所に住む沙織もまた彼女の父親を知っているようだ。
「まあ、研究馬鹿が家族からの愛称だったから」と笑う芽紅。
一息入れてから沙織は、
「でも芽紅はこれからどうするの?」と不安そうに訊ねた。
「なにが?」
人ごとのように振る舞う芽紅。
「進学も、就職もしないでどうするのよ」
地元の信用金庫に内定が決まっている沙織は少し心配しているようだ。
「私なんか、もう春休みから研修期間に入っていて、バイトがてら会社の雰囲気に慣れるための勉強漬けよ」
やさくれ顔でため息の沙織。
「すごい!」
「伝票の種類やらなにやら、全然分からないことだらけ」
「沙織は出来が良いから大丈夫」
いつの間にか自分の話になっていた沙織は首をブンブンと振ると、
「そうじゃなくて、あんたのことよ」と話を戻す。
そこに零香がアッサムブレンドの
「これサービスね。お父さん、好きだったのよ」
テーブルに温められたティーカップとソーサーが置かれて、籐のバスケットに入ったビスケットも置かれる。
「うわあ、ありがとう。これならまだおなかに入る余地ありそう」
育ち盛りの二人は、顔を見合わせてニンマリすると、その贈り物を頬張った。
「これこれ。お父さん、これを紅茶に付けて、べちょべちょにふやかして食べるのよ。英国流だ、とかなんとか言って。食器洗う方の身にもなれ、っての。カップの底にビスケットの粉がどろどろに溜まっているんだから」と懐かしそうに今は無き父を茶化す芽紅。
その夜、芽紅は不思議な夢を見る。
「いいですか、これが六分儀という道具です。似たような物に八分儀や四分儀などもあります。北極星や太陽の位置と水平線、地平線をこの角度に合わせるとなんと緯度などの現在地が割り出せるという優れものなのです」
どこかの塾や予備校の教室っぽい。だがその教壇にいたのは紛れもなく、芽紅の父親、
「お父さん!」
彼女は生徒の長椅子席から大声で叫ぶが、声が届かない。教壇の方には声が届かないようだ。
彼女は右手を天井に伸ばした姿勢で、ベッドに横になったまま目覚めた。
慌てた顔をして母親が、芽紅の部屋の扉を開ける。
「どうしたの? 大声出して」
心配そうな母親に向かって、
「ごめん夢で……」という芽紅の言葉に母は納得する。
「うなされたのね」と安堵の色だ。
上体を起こしてから、
「ねえ、お母さん、六分儀ってなに?」と訊ねる芽紅。
すると母親は驚いたように、
「お父さんの書斎に行ってごらんなさい、棚一面に置いてあるわ」と応える。
「うちにあるの?」
涼しい顔の母親は、
「だってお父さんは海図作成のお仕事に携わっていたから、趣味で世界各地の六分儀や四分儀を集めていたわよ」と笑う。
「知らなかった」
「当たり前よ。あの人ただの研究馬鹿人生だったから、人にべらべら話をするタイプじゃ無いわ」と仕方の無い人という顔で苦笑いの母。
そして「さすがに二十代の結婚前に、自分の作った六分儀でインドまで測定しながら船旅をする、って言ったときには、お父さんとの結婚に黄色信号がともったのよ」と加えた。
「そのまま現地で知り合った地図作成の会社の人と意気投合して、そこにお世話になって、そのままGPSの開発のデータベースを作成する仕事に誘われたってわけ、凄い人生ね」
「そんな無鉄砲な人とよく結婚する気になったね」
興味津々で訊ねる芽紅。
「君じゃ無くちゃ嫌だ、って寂しそうな顔でぐずられたのが運の尽き。情けない顔で私の方をすがるように見ているのよ。その一途さに負けちゃった」
芽紅は「おのろけ、ごちそうさま!」と笑ってベッドから起き上がった。
「はいはい。顔洗ったら朝食食べちゃって、今日はバイトの面接でしょう」
「うん。用意する」
芽紅は長いこと使っていない父の書斎に久しぶりに足を踏み入れた。
彼女は壁一面の棚に飾られた真鍮と木片で出来た、分度器が据え付けられた小さな望遠鏡のような機材を見た。
「これ望遠鏡じゃ無くて、六分儀っていうものなんだ」
彼女は興味津々で、そのレンズを覗いてみた。
ファインダーには机上の紅茶缶が映り、その分度器の先、先端の目印には、部屋に貼られた海図が示されていた。その海図の中心は日本ではなく、インドを中央に置いたメルカトル地図だった。
「どうやって使うのか、さっぱり分からないわ」
丁寧に棚に戻して、面接の支度を始める芽紅。
輸入雑貨を扱う小さな商社。小物インテリアに興味のあった芽紅は竹芝の近くにあるその社屋、面接会場にいた。
「では八女さん、八女芽紅さん」
呼び出しに面接ルームに入る芽紅。そこには三つのティーカップが並んでいた。珍しい面接である。
「こんにちは、面接担当の狭山と隣の女性が補佐の掛川です」
「こんにちは」
芽紅はこの場に相応しくない服装であることを結構後悔していた。軽いバイト感覚で受けに来ていたからだ。派手な服ではないが、カジュアルの類いである。ジーンズに、フリースの丸首。普段着そのままだ。
「そこにある三つのカップをお飲みになってから、感想をどうぞ」と狭山。
芽紅は右から順に飲むことにした。
一口含んで、強い香りに疑うこと無く、
「アールグレイ」と呟く。その言葉に狭山と掛川は頷く。
次に真ん中の当たり障りのない口になじむ味のお茶に、
「ダージリン」と小さく発する。やはり狭山たちは頷く。
そして左端の最後のカップを一口含む。後味に残る濃い紅茶の苦み。
「アッサム」
彼女がそう言うやいなや、
「おうちでもお飲みになるのですか?」と掛川。
「亡くなった父が、紅茶好きで毎日違う茶葉で楽しんでおりました。興味は無かったんですけど、生活、日常で覚えた習慣です」と応える芽紅。
面接担当者は顔を見合わせると、
「合格です。済みませんがあなたは明日から来てください」
「今すぐにでも」と各々が言った。
「今すぐ? 明日ですか?」
聞き直す芽紅に、
「ああ、すみません。これはこっち要望で、明日からでも、出来るだけすぐに来てほしいという意味です。埠頭に付いた船荷のインドとスリランカのお茶を識別するのに、紅茶の味を知らない人よりはありがたい。今日の面接はそんな選別をする試験も兼ねていたのです」と狭山。
「もちろん紅茶以外にも輸入雑貨のお仕事をして、ゆくゆくはバイヤーになって現地で買い付けもしてもらえたらと思います」
掛川はそう付け加える。
「ただいま!」
芽紅の言葉に、「どうだったバイトの面接」と笑う母親。
「即決で採用された」と芽紅。
「あら、何でかしら?」
「知らない」
「何の会社?」
「紅茶の輸入を中心の雑貨輸入の会社」と芽紅。
「紅茶の輸入会社を受けたの?」
「行くまで知らなかった。輸入雑貨の会社だと思っていたから」
「へえ」
「いきなり茶葉の味のテストさせられて、全部当てたら採用になった」と芽紅は不思議そうだ。
「きっとお父さんのお導き、ご加護かもね」と笑う母。
「そんな気もするね」と肯定的な芽紅。
「六分儀でインドに行くなんて言わないでよ」と笑う母親。
「私、研究馬鹿じゃないし」と軽く否定する芽紅。
二人の様子を笑顔で見つめる仏壇の写真、父親の笑顔に日の光が差し込む。海里の愛した優しい午後の家庭風景がそこにはあった。
了
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