第8話 ∞年越しそばと雪見酒





「さてお昼前に仕上げちゃうよ」

 一色は年越しそば用のそばを打つ準備を始めた。山陰の高峰として名高い大山だいせんの麓で丹精込めて育てられた韃靼粉だったんこと日本そば粉をブレンドした健康志向のそば粉。つなぎの小麦粉を少々加えて、出雲の斐伊川ひいかわの伏流水を使った正真正銘の出雲そばである。


 そば粉は昨夜のうちに石臼を挽いて作った二番粉。いわゆる「挽きぐるみ粉」である。一番粉の更級粉さらしなこ、三番粉の藪粉やぶこの中間で、色も薄い中間色。香ばしさと栄養価を損なわない粉である。


 毎年、この少量限定の潮風食堂の年越しそばを目当てに多くの人が店の前に並ぶ。お昼に食べる人が多いので、午後一時過ぎには完売となる。店内メニューではなく持ち帰りのみでの提供。店は開けず、店の前で露天売りをするだけだ。


「もう十人以上並んでいるわよ」

 零香もそばつゆを個別の容器に移しながら、窓の外の様子を一色に知らせる。

「今年は三十食程度かな? 取り置きの分が二十あるから」

 一色の言葉に、

「まあ、それだけ?」と零香は窓を眺めて心配そうだ。二時間前でこの状態なのだから、三十人などすぐに集まりそうな雰囲気である。

「増やした方が良いかな?」

 流石に少数限定とは言え、多くの人に届いてほしいのは当たり前なのだ。

「出来れば……」

 零香も一色の苦労は分かるだけに、控えめに肯定のサインを送る。

「分かった」

 一色はそう言って、奥の部屋の石臼の前に向かった。



 九住賀須佐くずみかずさは、穏やかな大晦日の午前中に、孫の楠治なむじを連れて列に並んでいた。楠治の親は海外赴任でアメリカに滞在しているという。まだ幼い息子は就学の都合もあり、祖父母に預けざるを得ない家庭の事情だ、と町の人は聞いていた。


「良い子にしてたら、パパとママ来るかな?」


 幼稚園に入ったばかりの楠治は、まだ見ぬ両親のことを無邪気に訊ねる。

「もちろんだよ。良い子にしていたら、お土産いっぱい持って帰ってくるよ」

 十一時を過ぎた頃、潮風食堂の扉が開いて、零香が長机を店の入り口に出す。そしてその机の前に、手書きの『出雲の年越しそば 本日五十食限定』と書いた紙を貼る。何とか時間を工面した結果、一色は二十食の増加分も増産してクリアした。


 運悪く、最後の一人というところで五十食は完売してしまう。

 九住は「残念かな……」と孫に言う。

 最後の一人だけが買えないというのは正直なところ、零香も心苦しい。様子を見ていた一色は、

「九住さん、ちょっと」と手招きを厨房の窓から見せる。

 九住は子供の手を引きながら、自分の鼻がしらを人差し指で押さえて、「私かい?」と問う。

 大きなジェスチャーで、うんうんと頷く一色。

 零香は店の入り口を開けると、笑顔で「どうぞ」と勧めた。

「買えなかった?」と一色。

「うん。最後の一人だけ」と歯切れ悪そうに笑う九住。

「ウチで食べていっちゃいなよ。お孫さんと一緒に」と笑う一色。

「だってもう完売でしょう」と訊ねる九住に、

「まかない分が多めにあるから、近所のよしみでご馳走するよ、二人分」

「いいのかい?」

「いつも無理言って時間外に文房具品や本の注文お願いしている恩もあるしね」

「あはは。本屋やっていて、得したなこれは」と笑う。


「この近所で町の本屋さんが頑張っているの、って、我々の元気の源なんだよ。今も自転車の荷台に月刊誌のロゴの入った雑誌入れの小箱を載せて、町中を配達してくれている九住さんはこの町の誇りだ」

 そういいながら、

「おじいちゃん、好きか?」と楠治にも話しかける。

「うん」と嬉しそうな輝く瞳が祖父の腕にしがみついて笑う。

「そっか。一色さんもさ、おじいちゃん、大好きなんだ。仲間だな」

「へへへ」

 不安そうにしていた子供の顔も少しだが和らぐ。

「僕も本屋さんの仕事好きだよ」

「へえ? どんな仕事なの?」

「短冊をね、会社ごとに分けるの。僕にも出来るんだよ」


 楠治の言葉を付け足すように、

「回転スリップっていう、本に付いている長細い短冊の仕分けを手伝ってくれているんですよ」と言う久住。

「ああ、買った時にレジで抜いちゃうあれね」

 一色の言葉に「そうそう」と頷く九住。

「僕はおじいちゃんと一緒に本屋さんやるんだもん」

「坊や偉いな。そのご褒美に一色さんは坊やにおそばご馳走するよ」

「本当」

「うん。そこに座って待っていてね」と笑い、九住に会釈すると一色は釜の前に戻った。


 九住を送り出し、新年のご挨拶が書かれた貼り紙と準備中の札を店先にかけたとき、見覚えのある顔が一色の目に映る。


「よお、元気」

 濃いブラウンのジャケットに偏光グラスをかけた中肉中背の男性。かつて隣町に住んでいた一色の先輩である。

「夏見さん!」

 右手には熨斗紙を貼った蔵出しの有名な日本酒を持っている。

「一杯やろうかと思ってね」

「奥さんは?」

 そういうと夏見の後ろからひょっこり顔を出す栄華。現役のピアニストである妻も一緒だった。

「こんにちは」


 栄華にも「ああ、ご無沙汰しています。いつも妹の美和がお世話になっています」と笑いかける一色。

「いまの本屋のおじさんとあの子・・・だろ?」と夏見。

「ええ」

「まあ、立ち話も何ですから中にどうぞ」

 返事した一色と中に案内する零香。


 テーブルに案内された夏見夫妻をあらためて声かける零香。

「ご無沙汰しています」

 丁寧な挨拶に、二人も深々とお辞儀をする。

 四人はテーブルを挟んで、夏見の持ち込んだ日本酒を開ける。

「そばとそばがき、それに天ぷらのつまみで良かったですか?」

「終電前には帰るからお構いなく」

「前はお隣の船橋だったからずっと飲み明かせたのに」と残念そうな一色。

「もう年齢的にオールはきついよ」と笑う夏見。

「おじさんですからね」と栄華は冷やかす。

「じゃあ、あとはある物を適当に出してきます」

「ほんと、そんなに要らないよ」


「粟斗さんは、呑んで楽しければ何でも良いのよ」と笑う栄華。

「大切ですね」と頷く一色。

「乾杯」

 そう言って、四人は銘酒を味わい始めた。


「あの子だよな。雪の日に教会で泣いていたの」


「ええ、移動販売のキッチンカーに乗ったワッフル屋さんの歌恋ちゃんが見つけて……。ゆりかごと子供の名前が付いた札だけが添えてあって。なんでも正式に九住さんが引き取れるようになったそうです。両親は分からずじまいですが、九住家の子供として生きていくのも幸せかと。同じ町内で自分もこの先を一緒に見守っていくつもりです」


 真面目な顔の一色に夏見は、

「一色はそういうところが、良いやつなんだよな」と軽く目頭を熱くする。


「いや、不器用で、要領悪い性分なので、正直に生きようと心がけているだけです」

 そう言って、猪口をくいっと飲み干す。

「とにかく、お年玉、今年も九住さんちの玄関先に大きなおもちゃ、置いてきたぞ。頼まれたとおりに、二人が年越しそばで並んでいる間にね」と夏見。

「毎年ありがとうございます」

「もし玄関先に置いている姿をあの子に見つかったら、言い逃れで、便宜上お父さんとお母さんのお友達ということになってしまうんだけどな」と笑う夏見と栄華。


「まあ、思春期が終わった当たりで彼自身が思慮深くなって、考えるときが来るまでは続けてあげましょう」と栄華は加えた。


「サンタさんではなく、大黒様だな。季節がら」と夏見。

「歳神さまでも良いですよ」

 そう言って、夏見の髪に付いている松の枯葉を優しく取り払った。


 窓の外にははらはらと風花が舞う。

「雪見酒ね」と栄華は穏やかに外を見る。

「本当」

 零香も頬に手を当てて、同じ気持ちで窓を見た。

 今年もあとわずか、一色は先輩の夏見と杯を交わせるこの至福の時間に暫しの安らぎを覚えていた。

                                        了




 

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