第6話 ∞幸せの青い鳥は野菜炒めがお好き

 軒先にバタバタと羽の音。暖簾が強風でなびいているか、とても気になる一色。

「あ、見てみようか?」

 気を遣って、七竈大地ななかまどだいちが立ち上がった。足立区に住む工芸家である。流通センター前の展示ホールで作品展に出品した帰りの食事前だった。

「あ、お願いして良いですか」

 フライパンを片手に必死にレバ野菜炒めを作る一色。締め切りに追われ、徹夜続きのジャンクフードに飽きて、そろそろいつものご飯に戻りたくなった、と訪ねてきた大地の遅い昼食だ。


 席に戻った大地の手には綺麗な青い色の鳥が握られていた。

「なにその鳥?」

 零香は駆け寄る。

「オオルリだね。きっと越冬のための帰り支度の途中で釣り糸に引っかかって、それを足に絡めたまま飛んで来て、ここでその釣り糸が軒先に引っかかって動けなくなったんだ」

「オオルリねえ」

「綺麗な鳥でしょう。十一月には越冬で南の島に飛んで行ってしまうんだけど、出遅れ組だね、こいつは。オレと一緒、奥さんとはぐれちゃった」と笑う大地。

 大地は丁寧に絡まった糸をほぐしてやる。

「今自由にしてあげるからね」と言いながら。

 程なくしてその青い鳥は自由になった足を嬉しそうに動かす。

 大地は店の軒先に移ると、

「そら、南の島に飛んでいけ!」とその鳥を放った。


「まだ彼女に未練があるの?」と一色。

 大地は曖昧に微笑むと、

「さてどうかな?」と謎めく。

「入籍はしていないんだよね?」

「うん。事実婚ってやつだった」

「志穂さん、綺麗だもんなあ」

「うん。彼女は美しい。僕にはもったいない。大空に放してあげないと」と大地は笑った。


「奥さんの話?」と話に割り込む零香。

 出されたレバ野菜炒めを前に箸を割ると、

「そう、大金持ちで、美人で、高学歴で、僕にはもったいない奥さん」と笑う。そして言い終えるとそのまま野菜をぱくりと口に放り込んだ。


 一色はちょっと真面目に、

「なあ、『鶴の恩返し』と『天の羽衣伝説』だとどっちが好きだい?」と突拍子もない話題を振る。

「なんだ、心理テストかい?」

「そんなところだ」

「僕は鶴の方かな」

「どうして?」

「だって羽衣は天女のものを隠してしまう邪念がある。でも鶴は助けてあげるんだ。そっちのほうが正しい行いだ」と大地。

「大地くんらしい選択だ。見栄っ張りな高級料理よりも野菜炒めって感じかな?」と一色は嬉しそうだ。まるで「金の斧と銀の斧」を選ばせる女神のような顔で頷いている。

 そして「良い夢見ろよ」と独りごちる一色だった。


 十一月の晩というのは、数日に一回、晩の冷え込みが激しい日が来る。その日はそういう日だった。

 冷えると近くなるのがトイレだ。

「また行きたくなった。寒い日はこれだから嫌だ」

 足立区の住宅地にある大地の家のあたりは結構農地が残っている。二十三区内でもまだこんなに田園風景が残っているのか、と思わせる場所だ。


 その近所で朝方の六時過ぎ。薄明かりが東の空を染めるような時刻に、なぜか志穂は愛車のBMWを運転して、通い慣れた道を走っていた。急ぎの用事で会社に行かねばならない。海外へのファックスなので、この時間になってしまう。今時のEメールを使えない業界にいる彼女は、あえてファックス一枚のためにオフィスに急いでいた。あぜ道のような未舗装の泥道、突然飛び出してきた小動物に彼女は急ブレーキを踏んだ。空を舞ったその物体は鳥だった。もうどこかに飛んで行ってしまったようだ。

「青い鳥?」

 そう子供の頃に読んだメーテルランクの『青い鳥』。チルチルとミチルが幸せを探して異世界を旅する話だ。

 彼女はフッと笑って、

「幸せは探す物では無くて、足下にあるってオチだったわね」と思い出した。

 気を取り直して、彼女はアクセルを踏み込むと、からまわりのタイヤの音がした。

『まずいかも』

 悪路。水たまりのあるくぼみに完全に後輪がはまったようで、何度アクセルを踏み込んでも空回りのふかした音だけが早朝の農地に響く。


 用を足し終わった大地は、表で大きな空ぶかしの自動車の音がしているのに気付く。

『またくぼみに脱輪させたな』

 彼の家の前のあぜ道はよく車が立ち往生することで、近所でも知られた場所だ。ジャージーに半纏を引っかけると、白い息を吐きながら、彼はありったけの古新聞を束ね持って、その現場に向かった。

「やっちゃったねえ」と声をかける大地に、

「あなた」と驚く志穂。

「なんだ、君か」と苦笑いの大地。数ヶ月前に分かれた妻の志穂である。

 彼は平静を装い、

「貸してごらん」といって脱輪のくぼみに浮いた状態のタイヤと地面の隙間を埋めるように、新聞紙を挟み込んでいく。

「いつもこんなことしているの?」

「困った人を見過ごしておけないだろう」とやはりいつものように返す大地。

「相変わらずお人好しね」と返す志穂。

「そのお人好しのおかげで、こうして君はいま助かっているんだけど」と煙たい顔の大地。

「そうね。ありがとう」

 流石に志穂もこの状況で憎まれ口は慎んだようだ。自然と礼の言葉が出る。

「よろしい」

 そう言いながらも、古新聞をギュウギュウになるまで、タイヤとくぼみの空間に埋めた大地。

「ちょっと乗り込んで、ローでアクセルゆっくり踏み込んでくれるか」

 大地の言葉に、

「ああ、ええ」とドアを開け運転席に乗り込む志穂。

 半扉のまま、後ろを気にしながら、ゆっくりとアクセルを踏み込む志穂。

 グルグルグル、ギュー。

 新聞紙を巻き込みながらも車は前進してくぼみを抜け出した。

「良かった」

 運転席の横に並ぶとのぞき込むように、

「こんな時間から仕事なんだね。まあ、気をつけて」と大地。

「あとでお礼に伺います」

 他人行儀になれていない志穂は曖昧に頷くと、片手を挙げて、「じゃあ、また」と言って、車のドアを閉めロックした。そしてシートベルトを締め直して、車を発進させた。

 彼女はハンドルを操作しながら、自分のうぬぼれと年齢にあった価値基準を手に入れられなかった過去の稚拙な自分を悔やんでいた。誰にでも優しいと言うことは、自分にも常日頃から優しいということなのだ。

「幸せはすぐ隣にある。メーテルランクの青い鳥が教えてくれたのね」



「やれやれ。早朝から仕事に追われ、齷齪あくせくしている。あれが彼女の言っていた幸せなのかな?」

 泥だらけの新聞をゴミ袋に回収しながら、大地は現実と夢の境目が見える年齢に達したことを自ずから察した思いがした。


「こんにちは」

 大地が一色の店の扉を開けると、そこには真っ白なワンピースで着飾った志穂の姿があった。

「お呼びだてしてごめんなさい」

「どうしたの、その格好?」

「あの朝に、あなたに惚れ直したみたいなの。もう三十歳近い私じゃだめかしら?」

 おそらく一色と零香に相談して、彼の気持ちは既に知っている志穂の告白。ほぼ出来レースである。

 意味深な含み笑いの一色と零香。

 彼はゴクリとツバを飲み込んでから平静を装うまでに数秒もかからなかった。

「僕がだめって言うわけないでしょう」

「ごめんなさい。……ありがとう」

 優しさがあふれる彼の言葉に、志穂はこらえきれず大粒の涙をほろりと落とすのだった。

                                                 了

 



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