第5話 ∞YouTuberの氷砂糖


 葛西の町にも冬が来た。木枯らしの吹く人恋しい季節だ。ジングルベルのメロディーが鳴り響く街角。

 ここ「潮風食堂」のカウンターにも、そんな人恋しい季節に合わせるかのように、思い出に浸る青年がひとり。


「でね、一色さん、その近所にいたさっちゃんは、無敵のヒーローでね、いつも僕を助けてくれたんだ」

「啓太は小さい頃、泣き虫だったからなあ、ははは」

 看板前の貸し切り状態の店内、一色の笑い声も少し余裕がある。客は彼の他に、若い女性客がひとりだけだ。身内客で毎日決まってここで遅い夕食を晩酌と一緒に楽しむマスコミ業界人のような女性だ。タブレットPCを無言で操作している。


 そう言いながら、後ろの女性に気付くことも無く六会啓太むつあいけいたは幼い日を思い出していた。



 その頃、啓太の身長は105センチ。近所のガキ大将、平次に突き飛ばされて、尻餅をつく啓太。みるみると顔がこわばり面長の顔が、横長に変化する。そして目頭には熱い水滴が溜まり始めて、『わー』と泣き出す。

「オレの通り道にいたお前が悪いんだぞ!」

 そう言ってふんぞり返る平次に、

「こら! また啓太をいじめているな」と遠くから大声がする。

 おかっぱ頭の日焼けした顔で、スカートを翻してやって来たのがさっちゃんだ。冬になろうか、という時期にも日焼けするほどの健康優良児のさっちゃん。

「やべえ、うるさいのが来た。オレ、あいつ苦手」

 ガキ大将は煙たそうな顔で、手下二人にあごで合図を送ると、その場を急いで立ち去った。


 小さな啓太に近寄るさっちゃんは、

「こら啓太、あんたもなんか言い返しなよ」とポケットから取り出したハンカチで顔を拭いてやる。

「さっちゃん……。ええん」

 さっちゃんは困ったような顔で啓太を抱きしめる。

「あたし、中学に入ったら啓太とは会えなくなるんだ。ちゃんと強くなるんだぞ」

 頭をぽんぽんと撫でられて啓太は居心地の良いさっちゃんとの時間に身を委ねていた。


 そんなことを思い出しながらカウンターに覆い被さって、大人の啓太はおちょこを持ったまま、「ムニャムニャ」と笑っている。

「あーあ。夢の中だわ」

 零香は仕方ないという表情でブランケットをそっと啓太の肩にかける。

「おうちはお隣さんだし、少しこのままでいいよ。起きなければ、オレが連れていくよ」と一色。

「リストラにあったの結構堪えていたのね。このご時世で行き場のない人にとっては、世の中が墓場よ」

 零香も頷いて一色に従う。



 夢の中の啓太は相変わらずの泣き虫。

「どうしてさっちゃんは遠くへ行っちゃうの?」

「寄宿舎のある全寮制の中高一貫教育の学校が受かったんだよ」

「ちゅうかん、いっこうなの?」

「学校の中に自分のお部屋がある学校なんだ」

「そこは葛西より遠いの?」

「うん」

「高砂よりも、船橋よりも遠いの?」

「うん」

「上野や新宿よりも遠いの?」

「ずっと、ずっと向こうだよ」

 すると泣き止んでいた啓太の目に再び、じわりと涙がにじんでくる。まるで巣立ちを強要されているひな鳥のような光景だ。

「大丈夫、大人になったら、困ったときには、あたしはまた啓太のすぐ近くに来て守ってあげるよ」

「本当?」

「うん、本当」

「僕一人じゃ、泣いちゃうんだからね」

 そういうとさっちゃんは、「啓太、お口あーんして」と笑う。

 その言葉に啓太は口を開けると、彼女は袋から一片の無色透明な塊を取り出して彼の口に放り込んだ。

「甘い」

「氷砂糖っていうのよ」

「氷なのに冷たくないね」

「そうだね」

 機嫌を直した啓太は彼女と二人で夕日の照らす中を帰路についた。


 夢の世界のことと分かっていないのか、寝顔の啓太はにんまりと笑顔をにじませている。

「なんの夢見てんのかね?」と一色。

「ねえ、聖美。あんたもいつまでここで飲んでんの? 早く家に帰りなさいよ」ともう一人のテーブル席に座る客に言う零香。

「零ちゃんはいいからこの器をかたづけてよ。あたし、この子に用事があるの」と笑う。

「親戚だからって、いつも値引きはしないわよ。今日はこんな時間までいたんだから正規の代金をいただきますよ」

「はいはい。お支払いするから」と笑う聖美。相変わらずタブレットを操作している。

「ゆーちゅーばあ、って儲かるの?」

 怪訝な顔の零香。どうやら親戚である彼女の職業のようだ。

「どうかしら? このお店ぐらいは儲かるかもね」と笑う聖美。

「じゃあ、儲かってないよ」と笑う一色。


 カウンターから上半身をすっくと起こして、首を振る啓太。

「あれ、寝ちゃった」

 その言葉に、

「気持ちよさそうだったよ」と一色。

「ハローワーク紹介企業の面接、全部だめだったんだ」

 思い出したように青ざめる啓太。

「そっか。その仕事と自分のキャリアが合ってなかったんだよ」と一色。

「でも折角パソコンのビジネス専門学校出たのにこれじゃ、自分がふがいないよ」


 冷えた燗酒を再度猪口に注ぎながらグイッと飲み干す啓太。

「また明日行ってみれば良いじゃない。いい案件が入っているかもよ」と零香。

「そんなに世の中上手くいかないし……」

 零香と啓太の会話を遠巻きに聞いていた聖美が、突然口を挟む。

「そんなこと無いんじゃない、すぐにでも採用が決まる事だってあるのよ」と笑う。

 目をこすりながら彼女を見る啓太。ワンレングスのヘアスタイルで、ファーの襟巻きをした灰色のセーターの女性。ロングブーツにブラウンのハーフ丈のキュロット。シンプルで上品な女性だ。

「誰?」

 啓太は零香に訊ねる。

「私の遠縁、身内の子なの。昔っからこの近所に住んでいるのよね」

「へえ」

 見ず知らずの女性に慰めてもらった啓太は、少し恥ずかしかった。

 聖美は啓太の横に座ると、にこっと笑う。

「……こんにちは」

 たじろぎながらも店の身内と聞き挨拶をする啓太。

「ねえ啓太、口を開けて」

「は?」

「いいから」

 啓太はいきなり呼び捨てにされた初対面の女性に面食らったが、言われたまま口を開ける。

 すると彼女は、優しい顔でポケットから氷砂糖をひとかけら取り出して、彼の口に放り込んだ。

「えっ?」

 記憶のある場面の再現に驚く啓太。

「さっちゃん? ……なの?」

 彼女はカウンターに頬杖付いて小さく笑うと、

「明日からウチのプロダクションのPC管理、あんたに任せるから、履歴書持ってここにおいで」と差し出した名刺で投げキッスをした。その目尻はメイキャップをしていたが、啓太には分かる。そう、あの頃と変わらない微笑みが蘇る。


 その名刺には、

『映像プロダクション さっちゃん 代表取締役 六実聖美むつみさとみ』と書かれていた。

 そしてぽんぽんと啓太の頭を撫でると、

「いつもあなたの味方だから」と抱きしめた。

 そして「じゃあ、零ちゃん、あたし帰るから、啓太の分もこっちに付けといて、出世払いで彼には仕事で返してもらうから」と彼の伝票と自分の伝票を握ると、それをレジにいる零香に渡した。その間にコートを羽織って袖を通す。


 レジ横で、

「あんた啓太くんと知り合いだったの?」と零香。

「うん。幼なじみの可愛い弟分だったのよ」と財布を取り出して頷いていた。

「さっきから様子を窺っていたのはそういうことか」

 流し目の零香は笑う。そして、

「よろしく頼むわね」と加えた。

「もちろん!」

 彼女はそう言い残して、颯爽と店をあとにした。

 啓太は驚くほど美しくなっていたさっちゃんに、驚きと恋心を抱いていた。

                                                    了



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