第三十九章 10月17日

 所々に氷の張ってある冷たそうな海に知らない男が入っており、こちらに向かって手を振り自分を呼んでいる。


 男は随分遠くにいるので、声も聞こえず顔は見えなかったが自分にはその男が知り合いだと直感で分かった。男の名前は分からなかったが、自分はその相手に好意を持っている事だけは何故か分かった。男の事も知らないはずなので本当に何故かは分からなかった。


 自分はそんな場所は冷たいから行きたくないと思いながらも、その男に会いに行きたく冷たい海に足を踏み入れた。海は思った通り冷たく、深く暗い色をしていた。だが恐怖心はなかった。海は足が付く深さだ。腰より少し上程の水位だ。自分は所々浮かんでいる氷の中を掻き分け、手を振り自分を呼んでいる男に向かって海の中を歩いて行った。


 男は笑っていた。遠くから男の顔がまだ見えないはずなのに、男が笑っている事が何故か分かった。男に手を振られている事に自分も何故か喜び近付いていったが、男の側まで来てその男の顔を見て瞬時に言葉を失った。


 男は人間ではなく人型の氷像だった。笑顔でもなければ、両手は下げ手を振ってすらいない。


 その瞬間自分は何故かこの氷像の男に見捨てられたのだと悟った。氷像の男の顔は自分の視界が悪くぼやけて良く分からないが、表情は無表情で冷たい視線が自分に投げかけられている事だけは直観で分かった。


 その瞬間自分は咄嗟に恐怖を感じた。先程まで男に呼ばれて嬉しく何も恐怖を感じていなかったのに、氷の漂う深く暗い海に氷像と共に入っている自分に恐怖を覚えた。先程まで寒さを感じていなかったが急に寒くて身体が凍えてきた。凍えて身体が固くなり、指を動かそうとしても金縛りにあったように動かす事が出来なくなっていた。


 海から出ている上半身だけ動かす事が出来たので周囲を急いで見渡したが陸までは遠く、咄嗟に誰かに助けを求めようとしたが周囲には誰も居なかった。霧が立ちこみ始め陸が見えなくなった。急いで振り向き氷像の方に視線を戻したが、氷像は何処かに消えてなくなり、自分一人だけが暗い海の中に取り残されており不安と恐怖心に苛まれた。


 不安感から突如過呼吸気味になったのだが、遠くからふと声が聞こえた。周囲を再度見渡したが何処から声が聞こえているのかは分からない。陸の方に視線を移したが陸は霧で見えなかった。


 また声が聞こえた。何と言っているのかは理解が出来なかったが、男の声で呼ばれている気がした。その時右手が温かく感じ、海の中に入れていた自分の右手から徐々に全身に温もりが広がっていく事に気が付いた。


「そうや」声が今度は近くに聞こえた。


 凍えて動かせなくなっていた右手に力が戻り、指を動かす事が出来た。凍えて動かし辛い自分の指を必死に動かした。その指を誰かに掴まれている気がして海の中に視線を移した時、海の中に人影が見えた気がし、恐ろしさから急に目を見開いた。


 急に眩しく感じた。改めて瞬きをして目を開くと、目の前に白い壁が広がっていた。壁ではなく天井だろうか。自分は横たわっているように感じた。自分の右手を握っている何かの力が強まった。右手は温かかった。


「そうや、そうや」男の声がした。右横から誰かが自分を見下ろしている。眩しさに視界が慣れその人物を見ると、マスクをした男が自分を上から見下ろしていた。その黒髪で眼鏡を掛けた切れ長の目の男は表情の分からない顔でこちらを見た後、すぐに顔を背けて何処かへ行った。右手から温もりが消える感覚がした。


 横から、すぐに「はーい、どうしました?」と女性の声が聞こえた。


「意識を取り戻したみたいです。来てください」男の声が聞こえた。


「そうや、良かった。そうやのお陰で俺は助かったんだよ。無罪になれた。ありがとう。そうやには俺が付いてるからね」その男はまた自分の横に来て自分を見下ろしながら言った。


 “そうや”とは何の事だろうか?この男は誰だろうか?


 また右手を触られた感覚がした。少ししてまた右手から温かい感覚がなくなった。自分を見下ろしていた男が自分から離れると、今度は別の白衣を着た男が自分を見下ろした。


「大丈夫ですか。意識ありますね」マスクをした白衣の男はそう言うと目の前に指を二本立てて見せてきた。


「この指見えたら頷いてください」白衣の男がそう言ったので、頷いた。


「喋れますか?喋れたらこの指何本か答えてください」白衣の男は続けて聞いてきた。


「二本」口を動かす事が重かったが、答えた。答えた瞬間自分の声が掠れている事に気が付いた。これが自分の声かと思い驚いた。男の声だが男にしては高い声をしている。これが自分の声なのか。


「ご自分の名前と生年月日を言ってください」白衣の男は聞いてきたが、何も答えられずにしばらく思考をしたまま沈黙をしてしまった。


 不安になり白衣の男の周囲を見渡した。


 白衣の男の後ろには女性看護師が一人立っており、先程自分の横に居た切れ長の目の男もその後ろに立っていた。その男がマスク越しに目を細め表情を歪めたのを見た。先程この男に呼ばれた名前が自分の名前なのだろうかと思考をして必死に思い出そうとしたのだが、“そうや”という名前が自分の名前だという実感が湧かず、苗字や生年月日すら何も思い出せなかった。


「…分かりません」自分は答えた。


 再度先程表情を歪めた男の方を見た。男は目を見開いていたが、しばらくすると無表情になりこちらを見下ろしてきた。マスクで顔がよく分からないはずなのに、その表情が先程夢に見た氷像の男と重なった。

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