第三十八章 8月31日

 高倉は茫然としていた。


 岸本家に警察官の制服に身を包んだ人間が数名入ってきた。後から入ってきた人間はスーツ姿の警察官だった。スーツ姿の男の警察官は見覚えのある顔だった。以前弟の起こした事件の被害者遺族とトラブルになった際と、岡本の件でパソコン教室にて会った顔だ。名前は確か野村だ。背の高い細身の男で、時折人権無視をする発言をするまだ若い警察官だった事を高倉は思い出した。何故野村がここに居るのか高倉は理解が出来なかった。


「凶器を降ろせ」一番近くに来た警察官が言った。


 周囲を取り囲んでいる警察官が銃をこちらに向けて距離を置いて警戒をしている。制服を着た警察官は三人程居た。


「私は正当防衛です」高倉は両手を上に上げて伝えた。


「いいから早く凶器を床に置け」他の警察官が言った。


 高倉は両手を上に上げたまま、ゆっくりしゃがむと片手に持っていた包丁を下に向け床に置いた。高倉は、そこで自分の着ている淡いブルーのワイシャツが血で赤く染まり、掌も腕も血で赤く染まっている事に気が付いた。


 周囲を軽く見渡した。辺り一面血の海のようだった。


「凶器から離れろ」警察官がそう言ったので、高倉は両手を上に上げた状態で床に置いた包丁から離れる為に数歩前に歩き、目の前に居た制服に身を包んだ女性警察官に近付いた。女性警察官は一歩下がった。だが高倉は気にせず近付いたので、結果、女性警察官の持っていた銃が自分の顔の目の前に来る形になってしまった。


 高倉は目の前の銃を見ながら、横から他の警察官が近寄って来て自分の手を掴まれ、両手に手錠を嵌めるのを黙って感じていた。両手首に金属の冷たい感触が広がった。目の前の女性警察官はまだ新人だろうか。童顔でまだ若く見え、目を見開き自分を見て怯えているようにも見える。


「八月三十一日二十二時四十七分、殺人の現行犯容疑で逮捕する」後ろに居た男の警察官の声が聞こえた。


 高倉は同時に、リビング内に入って来るグレーの制服とマスクに身を包んだ複数人の救急隊員にも目が行った。


 救急隊員はリビング内の凄惨な状態を見るとリビングの入り口で一度足を止めたが、一人の救急隊員は周囲を見渡すとまず先にアイランド型キッチンの手前に座っていた笠木と、その手前にうつ伏せで倒れている岸本有馬の方向に向かって早足で歩いて行った。後ろに居た他の救急隊員はマスク越しに手で口元を覆い嘔吐いていたが、先にリビングに入った救急隊員に「早くしろ」と声を掛けられたのでリビングの中に入って来た。


 高倉は岸本の方を見下ろした。岸本は先程確認をしたが、既に死んでいた。息をしていないようだった。


 高倉はその奥に座っている笠木にも視線をやった。笠木の死は最後確認しようと思った際に警察官がリビングの中に入って来たので、まだ確認が出来ていなかった。最後に見た時は出血多量で息も浅かった。どうせもう死んでいるだろう。


「お前は結局俺と同じ人間だ」だと?


 高倉は岸本の最後の捨て台詞に改めて苛立ちを覚えた。ただ平和に暮らしていたいだけだった。何故こんな事になってしまったのか。


「何をしている、早く歩け」自分に手錠を嵌めた後ろに居た男の警察官の声が聞こえたが、高倉は歩かずにその場に立ち尽くした。高倉は自分の中でも疑問が芽生え、笠木の方を見て首を傾げた。


 自分はあんなに笠木に執着をしていたはずなのに、何故今は笠木の死体を見てもこんなに冷静で居られるのだろうかと高倉は疑問に思った。笠木を愛していたように見えて、愛していなかったのではないか。弟が居なくなった分、ただ誰かに寄り掛かりたかっただけではないのか。自分から離れるのは良いが相手から離れられる事が許せなかっただけではないのか。


 ふと、高倉は昔学生時代に野良猫に虐待をしていた事を思い出した。今まで自分に懐いていたのに、子供を産んでから自分に対して警戒心が出たのか懐かなくなった野良猫に苛立ちを覚え、そこから誰も見ていない所で野良猫に虐待をした。


 笠木は、そもそも一度岡本になびいた段階で興味が薄れていたのではないか。


「まだ生きています」救急隊員の声が聞こえた。


 高倉は救急隊員の声を聞いて急いで笠木の方を見た。救急隊員は笠木の周囲に集まっていた。


 高倉は虚無感を覚え、つい呟いていた。「生きてたんだ。失敗しちゃったかな」

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