第三十三章 8月31日

 笠木は高倉との通話の後、不安を感じタクシーで岸本家へ向かった。


 岸本家の住所は以前高倉と岸本聡一のチャットのやり取りを高倉のスマートフォンに入れたゴーストアプリ越しに見ていたので知っていた。高倉を一人で行かせる事が不安だった。


 岸本家へ着くと、笠木は岸本家の存在感の大きさに戸惑った。周囲は田畑が囲んでいて大きな一軒家なので岸本家は遠くから見てもすぐに分かった。札幌市長の家だけあり豪勢だ。


 そしてタクシーから降りると、家から漏れ出ているクラシックのような曲の大きな音に笠木は驚いた。嫌な予感がした。高倉はもう到着しているのだろうかと思いスマートフォンからゴーストアプリ経由で高倉の居場所をGPSで特定しようとしたが、高倉はゴーストアプリを削除したのかゴーストアプリはもう使用出来なくなっていた。高倉の現在地が分からなかった。高倉に電話をしたが高倉には繋がらなかった。


 笠木が岸本家の周囲を囲っているコンクリート造りの塀の中央付近にある黒い大きな扉へ向かうと、扉は少し開いていて中に自由に入れるようになっていた。


 笠木は少し困った後に、爆音のクラシックを注意するふりをして高倉が来ていないか確認出来ないだろうかと思考した。笠木は扉の横のインターホンを押した。呼び出し音が鳴りしばらくインターホンの前で待ったが、誰も出なかった。


 笠木は罪悪感を抱きながらも恐る恐る黒い扉を開けて庭の中へ入った。笠木は高倉の実家を訪れた日を思い出した。岸本家の庭は広くその奥にある一軒家も豪勢だ。笠木は両開きの重厚感のある黒い玄関の扉の前に立つと、再度玄関横にあるインターホンを押した。


 玄関の前でしばらく待つと玄関の扉が少し開いて扉のドアチェーンの隙間から、眼鏡を掛けた背の高い切れ長の目の男が顔を出した。この男は札幌市長だと笠木はすぐに分かった。高倉が普段からテレビで市長の出る場組をよく見ていたからだ。市長は普段テレビ越しに見る柔和な笑顔ではなく無表情だった。市長は白いワイシャツを着ていた。市長は何も言わず、無表情でこちらを見下ろしてきた。


「勝手に庭に入ってすみません。あの、高倉という方がこちらに来ていませんでしょうか」笠木は市長に向かって聞いた。玄関の扉が開いた事でクラシックの音量が大きくなり、大声を出して聞いた。


「君は高倉さんの知り合いだね。話は聞いているよ。高倉さんは今リビングに居る。君も入るといいよ」市長は言ってきた。


 笠木は市長が自分の事を知っている事に驚いたが、高倉が既に到着している事にも驚いた。


 市長が一度扉を閉めると、ドアチェーンを外す音が聞こえた。その後市長は扉を開けて手で中に誘ってきたのだが、笠木は市長のワイシャツに赤い血が付いている事に気が付いた。


「あの、この音楽は…」笠木は血の付いたワイシャツを見たまま聞いた。


「ああ、止めようと思っているんだけど機械が壊れたのかなかなか止められなくて、今電源を切ろうと思っていたところなんだよ。煩くてすまないね。外に音が漏れてしまっていたかな」市長は聞いてきた。


「少し聞こえました。あの、ワイシャツに血が付いてますけど」笠木は聞いた。


「ああ、魚を捌いたら付いたんだ。失礼したね。すぐに着替える予定だったんだが」市長は顔色を変えずに言った。


「靴はどこで脱げばいいでしょうか」笠木は玄関と廊下の境界線のない玄関前を見ながら聞いた。


「ああ、うちは欧米式スタイルで靴のまま生活をしているんだ。靴のまま上がってもらって構わないよ」市長は言った。


 笠木はクラシックの大音量の中、市長に案内をされ玄関の中に足を進ませた。戸惑いながらも玄関の前に広がる長い廊下を左に曲がり、市長に付いて行った。茶色い大きな扉の前に着くと市長に手で案内をされた。


「先に中にどうぞ」市長は言った。


 笠木は不安に思いながらも扉を開けた。扉を開けた瞬間、笠木は鼻に付く匂いに圧倒された。


 部屋の中は錆び付いた鉄の匂いが漂っていた。ここはリビングだ。リビングの中は赤い液体が飛び散っていた。


 人間が血まみれの中二人床に倒れ、一人は長い銃を口の中に入れたまま目を見開いて目の前のソファーに座っている。この人間も頭から血を流し死んでいた。笠木は思わず叫びそうになったが、口元を抑えたまま腰の力が抜け、思わず床に座り込んでしまった。


 リビングの入り口付近の床は血が飛び散っておらず綺麗だった。笠木は震えながら周囲を見渡した。無残な目の前の光景とは対照的に大きなテレビや高価であろう大きなソファーや天井から吊り下げられたシャンデリアに目が行き、落差に戸惑った。震えながら後ろを振り向いて見上げた。後ろには市長が立っていたが、市長は何処から取り出したのか、手に長い銃を持っていた。


「市長さん?」笠木は震えた小さな声で市長に向かって声を出した。小さな声はクラシックの大音量によってかき消された事だろう。


「どうした?」市長は無表情で銃の中に弾を入れながら話し出した。「これは全て息子がやった事なんだよ。私はただの正当防衛だ」


「高倉さんは、どこですか」笠木は高倉の安否を心配して聞いた。何故か銃に弾を入れる市長が恐ろしく、市長から逃げるように床に座ったまま後ろに遠ざかった。腰が抜けていたが手を使って必死に移動をした。手が震えていた。後ろに広がる凄惨な光景とは反比例して普通に話している市長を前にして、これは夢だろうかと笠木は一瞬錯覚を起こした。


「嘘を付いてすまないね。高倉はまだ来ていない。君が来た事は予想外だった。この惨状は高倉と警察にだけ見せる予定だったんだ」市長はそう言うとカチャリと銃の音を立てて撃つ姿勢を取り、スマートな手つきで銃口を笠木に向けてきた。


 笠木は銃口を向けられ、これは現実なのだろうかと唖然とした。市長は銃口を向けていたが近寄って来るだけで撃っては来なかった。笠木は銃を見たまま震える身体を必死に動かし、立ち上がり後ろに下がった。思わず近くにあったアイランド型キッチンの後ろに急いで逃げ込んだ。


「そんなところに隠れてどうする?」市長の声が聞こえた。


 笠木も同じ事を思った。こんな場所に隠れても意味などないのに。


「君はうちに来るべきじゃなかった。何故来た?この後高倉が来る。高倉は元々殺す予定だった。本当は違う日に殺す予定だったんだがね、計画が狂った。君だけ生かす訳にはいかないんだ」市長は言った。


 笠木は唖然として目を見開いた。自分は殺されるのだろうか。高倉も殺されるのだろうか。何故?笠木は未だにリビングの惨状を受け入れられなかった。普段テレビで見る市長とは全くの別人に見える市長にも戸惑いが隠せなかった。笠木は急に非現実的な世界へ連れ込まれ混乱をしたが、必死に思考をした。周囲を軽く見渡したが逃げ場はなかった。


 市長は何を考えているのかこちらには来ない。自分がキッチンから顔を出すのを待っているのだろうか。このまま銃で撃たれてその後高倉も殺されるのだろうかと思考した後、笠木は警察に電話をしようと考えたが、履いていたジーンズのポケットに入れていたスマートフォンを取る手が震えた。


「この惨状は息子と高倉に罪を着せようと思っている。君も被害者になる」市長はアイランド型キッチンの向こう側から冷静な声で言ってきた。


 市長はまだキッチンの向こう側に居るが、いつこちらへ来て自分を撃つか分からなかった。笠木は震える手でスマートフォンを取り出した。逃げ場がない今の自分に出来る事は三つしかない。警察に電話をする事、高倉に岸本家へ来ないように伝える事と、あわよくば市長に抵抗をして逃げる事だ。最後の案は銃を前に無理だと理解をしていたが。


 笠木は恐怖の中、震える手を我慢しながらスマートフォンを操作した。警察に電話をしようと思ったが、話し声で市長を刺激する事を躊躇った。通話状態にしただけで警察は音声を聞き場所を特定して駆け付けてくれるだろうか。笠木は不安になった後、急いでスマートフォンの録音機能をオンにした。これで高倉が罪を着せられる事は防ぐ事が出来ると思った。その後急いで高倉とのチャット画面を開き高倉に文章を送信した。


 “来ないで”長文で説明文を送る余裕はなかった。本当は通話をしたかったが、これもまた音声で市長を刺激する事が不安だったのでチャットにした。


 笠木は録音機能の付いたままのスマートフォンを自分のジーンズのポケットの中に仕舞い、何か盾になる物はないかと周囲を見渡した。何もなかった。


 ふと、アイランド型キッチンの向こう側から市長が顔を出した。手には銃を持ち銃口をこちらに向けていた。

笠木は自分の人生はこれで終わるのだろうかと絶望したが、市長は何を考えたのか銃をキッチンの台の上に乗せると、キッチンの台の上に置いてあった包丁を手に取った。


 笠木は包丁を向けられ、震える足を我慢し市長を見ながらアイランド型キッチンに沿って歩き後ろ足で逃げた。アイランド型キッチンの前に着いた際にリビングの扉が見え走って逃げようとした瞬間、後ろから腕を掴まれた。笠木は恐怖で腕を払おうとしたが、後ろを振り向いた瞬間腹に強い力で何かが当たった感覚が走った。


 笠木は痛みを感じ自分の腹を見ると、市長の手に持った包丁が自分の腹に刺さっているのを目にした。


「銃で撃つと君すぐに死んじゃうからね。高倉が来るのを見ているといい。包丁は抜かない方がいいよ。出血多量で死んでしまうからね」市長の声を聞きながら笠木は現実が受け入れられずショックで全身の力が抜け、アイランド型キッチンの前の床にしゃがみ込んだ。

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