第二十八章 6月25日

 笠木は高倉がシャワーを浴びている間に、洗面所に置かれた高倉のスマートフォンに近付いた。


 高倉のスマートフォンは、ドラム式洗濯機の上に畳んで置いてある高倉のパジャマの下にあった。画面を下にして置いてある。


 笠木は高倉がまだシャワーに入ったばかりで出て来ない事を確認すると、高倉のスマートフォンを手に取って画面を見た。だがパスワードでロックが掛かっていた。以前何かの番組でスマートフォンの画面に付着した指紋の位置からパスワードが特定出来ると聞いた事があるが、高倉のスマートフォンの画面は拭いたばかりのようで綺麗で指紋は何も付いていなかった。


 高倉は笠木の前でスマートフォンを触る時も、画面を見られる事を嫌がる。高倉の部屋は二台パソコンが置いてあるが、全てパスワードでロックされていた。高倉は個人情報を厳重に管理していた。


 笠木は高倉のスマートフォンのロック画面のパスワード入力欄に、試しに高倉の誕生日を入力してみた。ロックは解除できなかった。全て一の数字を入力してみた。またロックは解除出来なかった。高倉に限ってそんな単純なパスワード設定はしていないだろうと思考していたが、だめ元だった。


 笠木は高倉のスマートフォンに付着した自分の指紋を拭いて元の位置に戻すと、パジャマを上に被せて何もなかったように偽った。


 笠木は先程シャワーを先に浴びていたので、高倉の部屋のベッドの中に入った。


 笠木はベッドの枕元の棚の上に置いてあった自分のスマートフォンを手に取った。最近のチャット画面を開いて見た。中身は高倉とイラストの仕事関係者以外はほぼ公式アカウントで、友人は居なかった。一番上の最近やり取りをしたチャットの相手は高倉だった。その少し下には岡本の名前があった。岡本は当に亡くなっていたが、笠木はその岡本とのチャットのやり取りを消せないでいた。岡本との最後のやり取りを見る。


 “創也、本当にごめん。許して”

 “許すよ”


 笠木は岡本からの最後のチャットに、岡本が留置所で自殺をしたと聞くまで返事をしなかった自分を悔いた。


 その後笠木は何故か岡本のチャットに返事をした。もう岡本がこの世におらず、このチャットを見る人間は居ないと理解をしていても、送らないといられなかった。この笠木の最後のチャットはずっと既読にならないままだ。


 笠木は岡本を思い出してふと涙目になった。岡本が自分を優しい表情で見つめる顔を思い出した。笠木は未だに岡本が女性をレイプしようとした事が信じられなかった。スマートフォンの着信履歴も見た。岡本からの着信履歴がまだ残っている。


 その後に岡本の件でやり取りをし、電話番号を登録したままの野村巡査部長の番号があった。


 高倉がシャワーを浴びて浴室から出てくる音が聞こえた。笠木はベッドの枕元の棚の上に置いてあったティッシュ箱からティッシュを取ると、流れてきた涙を拭いた。ベッドの横にある高倉のデスク下に置いてあったごみ箱にティッシュを捨てた。


 高倉がドライヤーで髪を乾かしている音が聞こえた。笠木は布団を被り寝ているふりをした。正規の仕事がなかなか見つからず、そのせいかネガティブになっている自分に気付いていた。最近は無駄に眠く、体が重い。月に五万程度の収入になっている在宅のイラストの仕事をする際も体調が優れない中で描いており、頭に靄が常にかかっているようで仕事の依頼者から何度も修正依頼が来るようになっていた。


 流行りの感染症の事も悩みの種だった。感染症の最中なのに高倉の仕事帰りが最近遅く、飲み会に参加している様子な事も気掛かりの一つだった。高倉は在宅勤務なのに未だにコワーキングスペースで仕事をしている。


 高倉がパジャマを着て自室に入ってきた。


「あれ、もう寝るの」高倉が声を掛けてきた。


「体調が優れなくて」笠木は布団からゆっくり顔を出して言った。


 高倉は近寄ってきてベッドの端に座ると、笠木の額に手を当てた。高倉は手に持っていた高倉のスマートフォンをベッドの枕元の棚に置いた。


「熱はないね。味覚はある?どうしたの?」高倉は聞いてきた。


「味覚症状は大丈夫だよ。最近夜なかなか眠れないんだ。昼間は眠くて仕方ないんだけど」笠木はベッドに横たわったまま言った。


「創也さ、何回か言ったけど創也の部屋に新しいベッド買わない?このベッドで二人で寝るのは狭いし、毎日は疲れが取れないでしょ。俺は別に寝袋生活でもいいんだけど」高倉は言った。


 笠木がこの家に戻ってきてから高倉は寝袋を買い、時に居間で寝ていた。最近は高倉のベッドで二人で寝る事が増えたのだが。


「だって僕の収入じゃベッド買えないし…お金出してもらうのは申し訳ないし。こんなならベッド売らなきゃよかった」笠木は言った。


「俺が買うから大丈夫だよ」高倉はこちらを見ながら言った。高倉が笠木の髪を撫でてきた。


「今度一緒にベッド見に家具屋行かない?あと…」高倉はそこで言い淀んだ。


「何?」笠木は高倉の方を見て聞いた。


「指輪さ、前にあげたやつ捨てたんだよね?」高倉は笠木の顔を見て聞いてきた。


「ごめんね」笠木は俯いて答えた。


「今度良ければ新しいもの、プレゼントしたら嫌かな」高倉は聞いてきた。


 笠木は高倉を見て戸惑った。指輪を貰っても今の自分は喜べるのだろうかと悩み、何も言えなかった。笠木が黙っていると、高倉は髪を撫でる手を止めた。


「今日は別々で寝ようか?俺のベッド使っていいよ」高倉は言った。


「いや、今日は僕が寝袋で寝る。ていうか何度も僕が寝袋で寝るって言ってるのに。ここは有隆君のベッドなんだから。働いて疲れてるだろうし有隆君がベッドで寝るべきだよ」笠木はそう言い、上半身を起こした。


「俺の事本当はもう好きじゃないでしょ」高倉がふと言った。


「嫌いじゃないよ」笠木は高倉を見ずに答えた。


「恋愛対象としては見てないでしょ?」高倉は聞いてきた。


「そんな事ない」笠木は高倉を見た。だが咄嗟に、高倉と別れたら自分の住む家がなくなってしまうという不安に駆られた自分にも気が付き、笠木は自己嫌悪に陥った。


「まぁ色々俺も悪かったし、仕方がないよ。どうすれば昔みたいに戻れる?」高倉は憂いを帯びた表情で笠木の顔を見て聞いてきた。


 笠木は悩んだ。高倉への疑念が未だに晴れていなかった。何故高倉はあんなに被害者遺族に執拗に狙われていたのか。何故前田という男は高倉の事に詳しかったのか。高倉の本性は自己中心的なのか。今は優しく見せているだけなのではないか。笠木は悩んだ末に、高倉と和解出来る案を自分の中で探した。


「有隆君、前に僕のスマホにゴーストアプリ入れて監視してたじゃん。僕も有隆君に入れたい」笠木は呟いた。


 高倉を見た。高倉は唖然とした表情をしていた。一度眉間に皺を寄せて何か思考している様子を見せたが、すぐに答えた。


「いいよ」高倉は言った。


「本当に?」笠木は断られると思っていたため、驚いて聞いた。


「うん。今入れようか?」高倉はベッドの棚に置いていた高倉のスマートフォンを手に持ち、聞いてきた。

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