第二十六章 8月21日

 高倉はラブホテルのベッドで沢田の上に乗り、目を閉じたい衝動に駆られた。


 気持ちが悪かった。何度も吐きかけたが耐えた。もしも吐いたら流石に沢田に失礼だと思ったし、計算が狂う事になる。


 笠木を抱いていると思おうとした。だが柔らかい感触から笠木ではないと思い知らされる。高い声が母親を彷彿とさせた。自分が母親の不倫相手の岸本有馬と重なり、まるで岸本と同類になったかのような錯覚に陥り、途中で何度も沢田から離れたくなった。


 自己嫌悪と普通に女性を抱く事の出来ない自分への劣等感。ずっと抱いていたコンプレックスが刺激された。高倉は自分が女性と普通に交際が出来ない事がコンプレックスだった。だから同性に逃げていた。高校時代に一度女性と交際をした事があったが、その時は事の際に気分が悪くなり女性の前で吐いてしまった。トラウマになった。


 今回はあの頃とは違う。もう自分は大人で、職場でも同僚の女性と会話は出来る。ある程度昔よりも成長したはずだと心の中で自分に言い聞かせた。


 何故自分はこんな事をしているのだろう。一瞬高倉は我に返った。


 何か別の方法があったのではないか。事を急ぎ過ぎて自分を見失っているのではないかと思考した。


 花見の時と同じ手を使おうか悩んだが、時間がなかった。岸本有馬は自分の存在に気付いているはずだと思った。岸本有馬に追い詰められる前に岸本有馬を追い詰める必要があった。早く岸本聡一を利用し岸本有馬を失墜させたかった。


「高倉さん、元気ない?」沢田は暗がりの中聞いてきた。ライトを一切付けず暗闇にしていたが、目が慣れ沢田の表情がよく見えてしまった。沢田は気まずそうだった。


「ごめん。最近疲れてて」高倉はコンプレックスがまた刺激された。どうしたら良いのか分からなかったが、沢田に嫌われるわけにはいかなかった。


「触ってくれる?」高倉は自己嫌悪に陥りながらも言った。


 沢田は何も言わずに触ってきた。男の性なのだろうか。好きでもない相手でも刺激を与えられたら少しはましになった。高倉は相変わらず気分が悪かったが、もう何も余計な事は考えずに事を終わらせてしまおうとだけ思った。






 高倉は沢田がシャワーを浴びて出てくるのを部屋のベッドの上に座り待っていた。高倉は先にシャワーに入っていたので既に着替えを済ませていた。シャワー中に吐き気に再度襲われていたが、吐かなかった。


 自分の着ているワイシャツの匂いを軽く嗅いだが、どうしても沢田の付けていた香水の香りが付いてしまっていた。ここで消臭スプレーなど使うものなら消臭スプレーの匂いと香水の香りが混ざり、逆に怪しまれるだけだ。


 今日は笠木には職場の打ち合わせの後、飲み会があると伝えている。酔った女性を介抱しただけだと伝えようと思った。匂いはその際に付いたものだと説明をする。今日は沢田をタクシーで送り届けた後、立ち飲み居酒屋に寄って少し居酒屋の匂いを付けてから帰宅をしようと決めていた。


 自分はバイセクシャルではないと笠木は信じている。女性が苦手だと思っている。具合が悪そうに帰宅をしたら上手く誤魔化す事は可能だろうと高倉は思考した。


 高倉はパンツのポケットに入れていたスマートフォンを取り出し、時刻を確認した。まだ終電で帰宅するには間に合う。コインロッカーにも間に合う。


 高倉が普段使用しているスマートフォンは先程ワインバーへ行く前に、大通駅の居酒屋の近くのコインロッカーに預けてあった。沢田と普段やり取りをしている業務用スマートフォンのみ今手元にある。帰宅する前にコインロッカーに預けたスマートフォンと、別のコインロッカー内に預けた業務用ノートパソコンの入った職場用に普段使用しているリュックを回収してから帰宅をしようと決めていた。


 持っていたボディバッグの中から沢田に渡す予定の赤い小包を取り出し、ベッドの上に置いた。このボディバッグはコインロッカーに預け、後日回収する。


 沢田が洗面所から出てきた。シャワー室から出た音はかなり前に聞こえていたが、洗面所での着替えに時間が掛かっていたようだ。沢田は乱れた髪と化粧を整えて、ラブホテルに入る前と同じ格好で出てきた。


「朱音さん、大事な話があってね」高倉は近寄ってきた沢田に声を掛けた。


「何ですか?」沢田はベッドの高倉の隣に腰掛けて聞いてきた。


「俺さっき岸本さんが怖いなら別れ話をしなくていいよって言ったけど、やっぱり別れて欲しい。朱音さんとちゃんと付き合いたいんだ」高倉は思ってもいない事を言う自分に辟易しながらも言った。


「そうですよね…」沢田はそう言うと視線を逸らして何か考え込んだ。眉間に皺を寄せている。


「これ、朱音さんに渡そうと思って」高倉は先程ボディバッグから出した小包を取り、沢田に渡した。


「ありがとうございます。何ですか?」沢田は小包を受け取った。「今見てもいいですか?」


「いいよ」高倉は言った。


 沢田は小包を丁寧に開けた。中にはペン型のボイスレコーダーを入れていた。沢田がボイスレコーダーの箱を見た。最初は普通の顔をしていたが、箱をよく見て驚いた顔をした。


「ボイス…レコーダー?」沢田はボイスレコーダーの箱を見ながら言った。


「岸本さんに会う時は、これを隠れて持った状態で行けばいい」高倉は言った。「岸本さんに不利になる音声を録音出来たら、それを使って裁判でもしてやると言えばいい。流石に岸本さんでもそこまでされたら身を引かざるを得なくなる」


「ありがとうございます」沢田は表情を明るくして言った。「何で今まで思いつかなかったんだろう」


「別れ話をする時に岸本さんに何か言われたりされそうになったら、これを使って逆に脅してやればいい。何かあったら俺が助けに入るから、その際はいつでも連絡して」高倉は言った。沢田から聞く限りだと、激情した岸本聡一は沢田に何をするか分からない。


「ありがとうございます」沢田は泣きそうな声で言った。

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