第二十五章 8月21日

 “大学まで迎えに行こうか?”


 沢田朱音は高倉から届いたチャットを見て、心が沸き立つ事を感じた。


 こんな感情を持ったのはいつぶりだろうか。高校生の頃に三年生の先輩を好きになった時以来だった。大学生になり、父親から急に岸本聡一との婚約を設定された。沢田はその際、今まで父親に反抗をした事がなかったが生まれて初めて反抗した事を思い出した。


「朱音何見てるの?彼氏から連絡来たの?」講義室で沢田の横の席に座っていた友人の唐北が声を掛けてきた。沢田の持っていたスマートフォンの画面を見ようとしたので、沢田は画面を隠した。


「ちょ、ちょっとお手洗い行って来る」沢田はそう言うと、自分の鞄とスマートフォンを持ちトイレへ向かった。トイレの個室に入り、鞄を荷物置きに置いてスマートフォンを見た。


 “嬉しいです。でも大学じゃなくて、別の場所で待ち合わせしたいです。大通りのこの前行ったカフェはどうでしょうか?”沢田は高倉に返信をした。


 沢田が岸本と交際をしている事は大学の友人は知っている。高倉が迎えに来てくれる事はとても嬉しかったが、高倉と二人きりで会っている事が岸本に露呈するわけにはいかないと思った。


 高倉に送ったチャットはすぐに既読になった。今日は高倉が有休を取っているというのは、沢田は事前に聞いていたので知っていた。今は自宅に居るのだろうか。今日は高倉が遅くまで空いているというので、一緒に夕食を食べに行く約束をしていた。


 高倉とは高倉に名刺を貰ってから連絡を取り合い、何度か二人きりで会うようになった。


 高倉はとても優しく、丁寧に相談に乗ってくれた。毎回気の利いたプレゼントもくれる。沢田は高倉から前回買ってもらったハンドクリームを大学にも持って行き使いたかったが、今は感染症の中で手の消毒を都度しなければならず、せっかく付けたハンドクリームの香りが消毒液の匂いで消えてしまう事が嫌だった。


 高倉はハンドクリームのセットを購入する際に言った。「沢田さんの綺麗な手がアルコールで荒れたら困るしね」


 沢田は自分の手を男性に褒められた事がなかったので、思わず赤面した事を思い出した。マスクで顔を隠せていて良かったと思っていた。ハンドクリームと一緒に箱に入っていたハンカチは今大切に使っており、箱に一緒に入っていた熊のぬいぐるみは部屋に飾ってある。


 沢田がスマートフォンの画面を見ていると、高倉から返信が来た。


 “分かった。朱音さんが終わる時間に合わせてカフェに行くよ”


 沢田は返信が来た事に嬉しくなり、すぐに返信をした。


 “楽しみにしてます”


 沢田は今日の大学の講義が早く終わる事を願った。今日の講義が終わる時間は高倉に事前に伝えてある。今はオンライン講義に次々移行している中、就職活動の講義のみ体面で行っていた。講義が早く終われば、化粧直しに時間が割ける。マスクは着用しなければならないが、目元のメイクだけでも直したかった。






「そうなんだ。高校からの友人は貴重だからね。大切にしないとね」高倉は赤ワインを飲みながら微笑み言った。


 高倉の後ろにすすきのの夜景が見える。高倉がわざわざ夜景を背景になる席に座ったのは、沢田が夜景を見えるようにするためだろうかと沢田は一瞬思った。大人の余裕が伺える。このワインバーの半個室の席も、この情勢を汲んで自分に気を遣ってくれたのだろうかと思った。沢田はマスクを外す事を躊躇わなくて済んだ。


 今日も高倉は昼間からずっと、沢田の話をひたすら聞いて笑ってくれる。時折良いアドバイスもくれる。いつも自分の自慢話しかしない岸本とは大違いだと沢田は思った。


「でも今日なんて人のスマートフォンを勝手に覗こうとしたんですよ。危うく高倉さんとのチャットを見られそうになりました」沢田は飲んでいた赤ワインのグラスを置きながら、友人の唐北の話を続けた。


「やっぱり俺と連絡を取り合ってる事は誰にも内緒なんだ?」高倉は苦笑いをして言った。


 沢田は一瞬気まずくなった。高倉に申し訳ないという気持ちと、高倉と交際が出来たらどんなに嬉しいだろうかという浮ついた気持ちに父親への罪悪感が出た。


「すみません、高倉さんに失礼ですよね」沢田は俯いてテーブルの上に乗っている料理を見て言った。


「別に内緒でいいよ。俺が車を持ってたら市外にドライブとかも行けたんだけどね。視線とか気になる?いつも夜にしか会えないのもごめんね」高倉は言った。


「全然、会えるだけで嬉しいです。高倉さんはお仕事忙しいだろうし、仕方ないですよ」沢田は慌てて言った。


「朱音さんは明日は休みなんだよね?」高倉は聞いてきた。


「はい。明日は特に何の予定もないです」沢田は言った。


「そっか」高倉は持っていた赤ワインのグラスを少し斜めに傾けてワインを見ながら言った。「今日は少し遅くなっても大丈夫だったりする?」


 沢田は一瞬どきりとした。今まで高倉は夜の二十二時前には沢田を最寄りの駅まで送り届けてくれた。今日は遅くまで一緒に居てくれるという事だろうか。


 岸本の事が一瞬脳裏に過った。自分の事を私物扱いする名ばかりの許嫁だ。高倉との仲がもし岸本に露呈したらどうなるだろうか。岸本は自分をまた殴るだろうか。いつも気に入らない事があると殴り、好き勝手に抱くように。


 一度父親へ相談しようと思った。しかし父親に岸本の名を出した瞬間「お前はただ聡一君と仲良くしろ」と圧力を掛けられ、誰にも相談が出来なかった。


 高倉が初めて相談を聞いてくれた。高倉は岸本から自分を守ってくれるだろうか。今はただの友人止まりだが、高倉は自分と交際をしてくれるだろうか。高倉には今恋人は居ないらしい。自分に好意が全くないようにも見えなかった。だが、高倉のような異性に困る事のなさそうな男性がわざわざ自分などに本気になるだろうか。ただの遊びだったらどうしようと沢田は思考した。


「朱音さん、言ってなかったけど俺朱音さんの事好きなんだよ。気付いてなかったでしょ」高倉は困ったような表情をして沢田に言った。


 沢田はまた自分の心が浮き立つ事を感じた。本当に?


「本当ですか?遊びじゃなくて?」沢田はつい言葉にしていた。言った後に失礼な事を言ったと自分を責めた。


「遊びなわけない。もし、朱音さんが良ければ付き合って欲しいと思ってますよ。岸本さんの事は、俺が仲裁に入って何とか穏便に済むように努力します」高倉は言ってきた。


「本当に?」沢田は思わず泣きそうになった。誰も自分を守ってくれないと思っていた。


「本当だよ。でももしすぐに岸本さんに別れ話をするのが怖いなら、すぐに別れてとは言わないよ。今日みたいに会える時に会うだけでも俺は十分幸せだし。駄目かな」高倉は聞いてきた。


 駄目な訳がない。沢田はそう思った。

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