第二十四章 8月1日

 高倉は手に持った書類を自室で見ていた。


 戸籍謄本。何回も見た書類だが、高倉は父親の養子だった。


 高倉は持っていた戸籍謄本の下にある一枚のDNA鑑定の書類を見た。結果は“血縁関係有り。遺伝子型が二十五パーセントの一致。共通の父親を持つ兄弟と判定”と記載されていた。


 高倉は札幌市長の息子の岸本聡一の吸っていた煙草の吸い殻に付着した唾液と皮膚を、自分の口腔内の細胞と合わせて民間企業にDNA鑑定を依頼していた。その結果の記載された書類が今高倉の手元にあった。


 つまりは岸本聡一と高倉は兄弟で、父親が一致するため札幌市長の岸本有馬は高倉の父親という事だ。母親の不倫相手へ復讐をするつもりが、その不倫相手は自分の実の父親だった。とんだ収穫だ。高倉は怒りと憎しみで手に持っていた書類を握り潰した。


 実の父親である岸本有馬は何故母親と義理の父親を殺したのか。高倉は、両親を殺したのは岸本有馬だと確信していた。義理の父親に不倫が露呈して、両親を心中に見せかけて殺して口封じをしたのだろうか。岸本有馬の事を以前調べたが、岸本有馬は政治家系に婿入りをしていた。そのような背景が不倫を隠蔽するために殺しにまで働きかけたのではないか。


 高倉はふと我に返り思考をした。元々母親の不倫相手だと思っていた岸本有馬を失脚させるために息子の岸本聡一に近付いたが、自分が下手に動いた事が岸本有馬に露呈すれば岸本有馬は自分を殺しに動くかもしれないと思った。岸本有馬の今までの行動からして、高倉の事を覚えていないか重要視していない。多分後者だ。だが自分が動けば話は別だ。


 通常の人間は思考しないが、一度誰かを殺した人間は選択肢に簡単に“殺す”という思考を入れる。


 高倉は笠木と同居を再開した事を後悔した。また笠木を巻き込んでしまうかもしれない。自分が岸本聡一と縁を切り大人しく暮らせば岸本有馬も動かず自分は笠木と平和に暮らせるかもしれない。高倉は一瞬こう思考した。だが岸本有馬への憎しみの方が勝っている事に気が付いた。


 自分はこんな目に遭っているのに、腹違いの兄弟である岸本聡一はあんなに自由に生きている。この感染症の最中毎日のように飲み歩いてパーティをするくらいだ。甘やかされて育ったのだろう。高倉は岸本聡一の事も同じくらい憎かった。


 両親が死んだ事で弟の有理はおかしくなり、高倉は有理と一緒に生きていけなくなった。高倉はこの怒りを何処かにぶつけないと生きていけなかった。もう通常の思考には戻れない事は自分でも理解していた。






 高倉はまた岸本聡一から誘われ、すすきののクラブに来ていた。


 クラブの中は薄暗く、赤や紫、青のライトがクラブ内で流れているクラブミュージックに合わせて天井から交互に差している。クラブの奥に広がっているVIPルームの白くて長いソファーに岸本と、岸本の友人である男女が座り酒を飲んでいる。皆この感染症の最中マスクを装着していない。唯一先程までマスクを装着していた沢田朱音は、クラブに到着しソファーに座ると同時に周囲に促され、マスクを顎に掛けて外していた。沢田は居心地が悪そうに見えた。


 高倉は先程まで岸本の目の前の席に座っていたが、隣の酔った男に始終絡まれて逃げ出したくなり、VIP席の見える廊下の端の席に移動していた。ここには他に一人疲れた様子の男が酒を持ちながら座っているだけだった。


 高倉が酒を飲みながら岸本を観察していると、岸本がふいに席を立ちこちらに向かってきた。


「高倉さん、シーシャ吸います?」岸本が、フロアに鳴り響いているクラブミュージックの重低音に負けない声で高倉に声を掛けてきた。


「シーシャ?」高倉はシーシャの意味が分からず聞いた。


「水煙草です。無料体験が出来るそうですよ」岸本は酔った足取りで、高倉に指でVIPルームの向こうに広がるフロアを指差した。


 クラブ内は暗くてよく見えなかったが、たまたまライトが岸本の指差す方向を照らした際に一瞬見えた。そこにはテーブルの周囲に何人か集まり、しゃがみ込んで長いチューブで何かを吸っていた。


「俺は遠慮しときます」高倉は笑顔を作り、酒の入ったグラスを持ち上げて言った。「だいぶ酔ってるので少し休みたくて」


「高倉さんが酔うなんて珍しい。じゃあゆっくりしててくださいね」岸本は笑顔でそう言うとVIPルームに戻り、他の友人に声を掛け始めた。座っていた男が何人か立ち、岸本と一緒にシーシャの無料体験コーナーへ向かって歩いて行った。


 高倉は岸本から視線を外すと、VIPルームの席にまた視線を戻した。岸本の近くに座っていた沢田が取り残され、気まずそうに誰とも会話をせず酒を飲んでいる。高倉が沢田を観察していると、沢田は酒を置いて席を立った。何処へ行くのだろうか。高倉は席を立って持っていた酒を近くのテーブルに適当に置くと、沢田を追い掛けた。


 沢田は化粧室へ向かったようだ。高倉は化粧室の近くの壁に背を付け、廊下で腕を組んで沢田が出て来るのを待った。


 沢田はなかなか出て来なかった。沢田を待っている間に高倉は知らない女性二人組に声を掛けられたが、フロアに一緒に行こうという誘いを断った。その断りを入れている間に沢田が化粧室から出て来たので、高倉は急いで沢田の方へ向かい声を掛けた。


「沢田さん」


「はい?」沢田は急に声を掛けられて驚いたように振り返った。「ああ、高倉さん。どうしましたか?」


「いや、疲れてここに居たら沢田さんを見つけて。沢田さん顔色悪くないですか?大丈夫ですか?」高倉は聞いた。


「顔色悪く見えますか?」沢田は不安そうに聞いてきた。


 高倉はこの暗がりの中で沢田の顔色が見えるわけがないと思いながらも言った。


「ええ。少し休んだ方がいいんじゃないですか」


「でも岸本君が帰らないと私も帰れないから」沢田は言った。ライトが沢田の顔を照らした瞬間、沢田が苦笑いをしているのが見えた。


「俺が送りましょうか?俺だったら岸本さんも文句は言わないでしょう」高倉は聞いた。岸本の周囲に居る若者よりはまともに見えるかと思考した。


「でも、高倉さんに申し訳ないし」沢田は言った。俯いている。


「俺もそろそろ帰ろうと思っていたんです。岸本さんには俺が後で連絡するので、大丈夫ですよ」高倉は言った。


「本当ですか?」沢田はそう言うと顔を上げた。「私本当はこういう場所が苦手で」


「だと思いました。俺も本当はこういう場所が苦手で」高倉は言った。「途中まで送りますよ。地下鉄で帰ります?タクシーにします?それとも運転手かな。迎えが来るならそれまで一緒に居ますよ」


「地下鉄で帰ります。私は東西線なんですけど、高倉さんは?」沢田は聞いてきた。


「俺は南北線です。澄川なんで。じゃあ途中まで一緒に行きませんか」高倉は聞いた。


「分かりました。岸本君、怒らないかな」沢田はまた不安そうな声を出した。


「俺が伝えるんで大丈夫でしょう」高倉がそう言うと沢田は安心したような顔をした。






 高倉は沢田と一緒にすすきのから大通り駅まで地下歩行空間を歩いて、東西線のホームまでやってきた。二人共クラブを出てからずっとマスクを装着していた。


「高倉さん反対方面なのにここまで送ってもらっちゃってすみません。ありがとうございました」沢田は頭を下げて言った。


「いえ、いいんです。沢田さん酔ってるし。女性一人は心配だったので」高倉は言った。


「岸本君にも連絡してくれてありがとうございます。あの、実は私…」沢田は何か言おうとしたが、ここで言葉を切った。


「どうしました?」高倉は目の前の小柄な沢田を見下ろして心配そうにして聞いた。


「私、実は岸本君が怖くて」沢田は高倉の顔を見て小声で言った。「岸本君に、後で何を言われるかとか、されるかとか考えたら怖くて。高倉さんには岸本君何か言ってますか?私のこと」


「いえ。特に俺は岸本さんと沢田さんの仲を聞いたりしていないので分かりませんでした。会っても仕事の話ばかりだし。何かあったんですか」高倉は聞いた。


「いえ、聞いてないならいいんです。すみませんでした。気にしないでください」沢田はまた視線を高倉から外して答えた。


「沢田さん、何か悩みがあるなら聞きますよ。溜め込むのは良くない。俺は岸本さんには言いませんよ」高倉は言った。沢田は黙ったままなので高倉は話を続けた。「そういえば沢田さんは大学三年生でしたよね。もう内定とか出てるんですか」


「いえ、でも勤務先はお父さんが決めたところに多分入るので」沢田は言った。「どうしてですか?」


「いえ、内定段階で今のご時世に遊び歩くのは、バレたらあまり心証が良くないんじゃないかと思って。俺は言いませんけど」


「そうですよね、分かってます。でも岸本君に逆らうのが、怖くて」沢田はまた俯いて言った。


「お父さんに相談は出来ないんですか?」高倉は一番疑問に思っていた事を聞いた。札幌市長の息子の岸本よりも、北海道知事の娘である沢田の方が立場は上に見える。


「お父さんは…岸本君のお父さんに逆らえないから」沢田は小声で言った。


 岸本有馬は北海道知事の弱みでも握っているのだろうか?高倉は思考し、一瞬沈黙した。


「もし俺で良ければ愚痴とか聞きますよ。誰にも言いませんよ。そうだ」高倉は沢田の懐に入る良いチャンスだと思い、胸ポケットに入れていた名刺ケースから名刺を一枚取り出した。この名刺の裏には事前に業務用スマートフォンの個人連絡先を書いておいた。「沢田さんとまだ連絡先交換してませんでしたよね。これ俺の名刺です。何かあれば連絡ください」


「ありがとうございます」沢田は名刺を受け取った。「私は名刺とかなくて…すみません」


「俺に連絡くれたら登録するので大丈夫です。さっきも言いましたがこの時期に抱え込むと良くない。俺で良ければ相談に乗るので、いつでも連絡ください。ああ、そろそろ終電になるし、もう帰った方がいいですよ。気を付けて帰ってくださいね」高倉は笑顔を顔に貼り付けて言った。


 岸本有馬を失脚させるには息子を使う事が一番手っ取り早い。その為に使える物は何でも使う。

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