第十九章 4月4日

「ホットコーヒー一つお願いします」高倉はいつも通りコーヒーチェーン店のレジで注文をし、トレーに乗せられたホットコーヒーを持って店内を見渡した。


 店内でしばらく見かけなかった笠木が、今日は窓際のカウンター席に座っているのが見えた。


 高倉は笠木の通っているカフェに毎晩のように通っていた。笠木もたまに通っていたので、あれからたまにこのカフェで会っては会話をするようになった。


 高倉は笠木の席に近付いて後ろから声を掛けた。「創也、久しぶり」


 笠木は高倉の方を振り向いて高倉を見上げてきた。笠木はノートパソコンをテーブルの上で開き、マスクを装着していた。マスク越しにも顔が青白く見え、目の下にクマもあった。体調が優れないのだろうか。


「創也顔色悪くない?大丈夫?」高倉は笠木を心配して聞いた。「隣座ってもいい?」


「久しぶり。いいよ」笠木はそう言うと装着していたマスクの紐を触り、高倉から視線を外した。


 高倉もマスクをしていた。最近の感染症の流行のせいだ。高倉はコーヒーが冷めるまではマスクを外さないでおこうと思った。マスクは表情を隠す事にも役立つ。


「体調悪いの?」高倉は背負っていたリュックを足元に置いてあった店の籠の中に入れると、笠木の隣の椅子に座って小声で聞いた。


「体調は別に悪くない。最近少し疲れてるだけだよ」笠木は小声で答えた。


「疲れてる?仕事で?」高倉はそう聞くと、カウンターの向こうの窓越しに見える外の風景を見た。平日のこの時間帯は帰宅ラッシュで人が多く、目の前に見える交差点は人や車で混雑していた。目の前を歩いている人間達はマスクを着用している人間が多かった。だがマスクの価格が高騰し品薄の状況が続いていたので、マスクをしていない人間もいた。


 笠木はしばし黙ったので、高倉は笠木の方を見た。笠木はノートパソコンに視線をやっていたが、心ここにあらずのようだった。無理はないと高倉は思考した。同居し交際している相手が性犯罪未遂で捕まったのだから。


「何かあったなら聞くよ」高倉は何も知らない風を装い、笠木を見て聞いた。


 笠木は俯いた。鼻を啜った音が聞こえたので、高倉は笠木が泣いているのかと思い不安になった。岡本は自分の名前を笠木に伝えただろうか。職場の同僚の話題として笠木に自分の事を話していても不思議ではないと高倉は思考した。だが笠木と何度かこのカフェで会っているが、自分が岡本の職場で働いている事を笠木は知らないようだった。


「交際している人が死んじゃったんだ」笠木は小声で呟いた。


 高倉は意味が分からず一瞬沈黙した。


「なんで?」高倉は聞いた。


 笠木は周囲を見渡した。高倉はその際笠木の顔を見る事が出来たが、笠木の目は涙目になっているように見えた。笠木は自分のノートパソコンに視線を戻すと、着ていたパーカーの袖で目を拭った。パーカーの袖が濡れているのが見えた。笠木は泣いていた。


「創也、何があったの?」高倉は岡本が死んだ事の意味が分からなかった。高倉は既にパソコン教室を辞めていたので何も聞いていなかった。


「犯罪者だって誤解を受けて、留置所で自殺したって」笠木は俯きながら小声で答えた。


「え?」高倉は岡本が自殺までするとは思わず驚き、マスクの中で口が開いたまま固まった。


「僕は冤罪だと思ってる。でももう死んじゃったから、もう二度と会えないし確かめようがないんだ」笠木は涙を流しながら言った。「養子縁組とか結んでるわけでもないから立ち合いに行けないし、今住んでいるマンションも僕の名義じゃないから、すぐに出て行かないといけなくて今急いで仕事を探してて。イラストの仕事の収入だけだと賃貸契約が出来なくて」


 高倉は笠木の境遇に思わず同情している自分に気が付いた。ただ二人を別れさせたかっただけなのに、こんな事態になるとは思わなかった。高倉は足元に置いていたリュックの中からポケットティッシュを取り出して笠木に渡した。


「今のマンションは創也名義に変更は出来ないの?」高倉は聞いた。


 笠木は鼻を啜った。ポケットティッシュを受け取ったがそれを使わずノートパソコンの横に置いた。またパーカーの袖で涙を拭いた。


「一時的に大家さんに言って僕が家賃払う事にしてるんだけど、今のマンションは家賃が高いから安いところに引っ越したいんだ。今は貯金でなんとかしてる感じ」笠木は俯いたまま答えた。マスクを取らないのは表情を隠したい為だろうか。


 高倉は笠木の自活能力の低さにも同情をした。だが笠木が正社員の仕事を過去に辞めて在宅のイラストの仕事だけをしている理由は高倉のせいで、笠木が実家に帰る事が出来ない事も高倉のせいだった。以前の被害者遺族とのトラブルが原因だった。笠木は以前高倉と交際を続ける事に反対をした両親と縁を切っていた。仕事に関しては、職場の通勤途中に笠木が何者かに線路に突き落とされた事がきっかけで、高倉から仕事を辞めて自宅に居て欲しいと笠木に頼み込んだ。


 高倉は笠木から友人も恋人も家も、仕事も奪ってしまった自分に気が付いた。だが罪悪感などは驚くほどになかった。ただ笠木を孤独に出来た事に満足していた。マスクで表情を隠せていてよかったと思った。高倉は笑みが抑えられなくなった。マスクをしているが念のため笠木とは反対側を向いて口元を手で隠し、表情が笠木に見えないようにした。落ち着いた後に笠木の方に視線を戻した。


「大変だったね。創也が嫌じゃなければだけど、次の仕事と住む家が見つかるまで俺のマンションに来る?」高倉は笠木に聞いてみた。


 笠木は驚いた顔をして高倉を見てきた。


「いや、でもそれは」笠木は言ったが、渡りに船のような目をして高倉を見てきた。


「ここで話す内容でもないと思うから、俺の家に来て話さない?何もしないよ。ただ話すだけ。マンションは、創也が出て行ってからそのままだから空き部屋があるよ」高倉は言った。


 笠木は戸惑っている様子だった。無理もないと思った。だがこの提案は今の状況の笠木は受け入れるのではないか。高倉は思考した。


 自分は上手く演技が出来た方だと思った。花見に乱暴をしたのはマスクと帽子で顔を隠し、眼鏡を一時的にコンタクトにし岡本と同じシャンプーの香りを身に着けた高倉だった。岡本と背丈が似ていてよかったと思った。ゴム手袋も嵌めていたので指紋は残っていないはずだ。現に証拠がなく自分は容疑者にはされていない。


 全ては笠木が岡本と別れ、自分が笠木とよりを戻したかったから行った。


 花見に乱暴をした際は花見に同情もした。たまたま都合良くターゲットに選ばれたために、心に傷を負ってしまったかもしれない。高倉はレイプ未遂犯に見えるように花見に仕方なく乱暴をした際に、吐き気に襲われた事を思い出してしまった。自分の幼い頃と重なった。花見の裸は見たくはなかったのだが、声を出して助けを呼ばれたり抵抗をされないようにするために仕方がなかった。人間は裸の状態で逃げる事も誰かに目撃される事も躊躇う。女性は特にそうだろう。


 岡本の残業をしていた際に作成していたという書類は、高倉が特殊なソフトを利用して作成時間を改ざんしていた。あのパソコン教室のセキュリティは対策が緩すぎて、自宅からでも簡単にハッキングが出来た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る