第十八章 3月20日

「状況証拠的にどう考えても岡本がやった事は明白なのに、普段の勤務態度までチェックするんですか」野村哲郎は公用車の助手席に座っている警部補の森に向かって聞いた。


 森は何も言わなかった。赤信号になり車を停めた瞬間野村が森の方をふと見ると、森は何か思考しているようで顎に手を当てて窓の外を見ていた。表情はマスクを着用しているので見えなかった。


「森さん大丈夫ですか?」野村は聞いた。


「ああ、大丈夫。岡本の事を少し考えていてね」森は言った。森はドリンクホルダーに置いていたペットボトルのコーヒーを取り出すと、マスクを顎に掛けて飲んだ。普段柔和な顔の森の表情が、今は固く見えた。


「岡本はもうレイプ未遂犯確定じゃないですか。被害に遭った女性の過去のトラブルを聞いたじゃないですか。岡本とは過去にも性的トラブルがあったって。それにレイプ未遂の現場には岡本の指紋の付いた岡本の私物が落ちていた。岡本はその日アリバイもない。確定ですよ。いくら同性愛者って本人が言っていても」野村は言った。


「それだが、ゲイなのにやるかと思っていてね」森はまたマスクを着用すると、窓の外を見ながら言った。


 普段冷静で感情をあまり表に出さない森が今回の事件の担当になった後からは、何処か情緒不安定になったように野村には見えた。女性が襲われたという事で、奥さんを重ねたのだろうか。野村は森の心情を察した。


「ゲイを偽装していただけでは?それにほら、ゲイの中にも女性に気がある奴だって居るそうじゃないですか。バイセクシャルっていうんでしたっけ?どちらにしても、そういうのを利用した性犯罪者の可能性がありますよ。森さんは殺人鬼に殺人をしていないって言われたら信じるんですか?」野村は青信号になったので、運転を再開させながら聞いた。


「そうじゃない。ただ、今の発言は少し偏見を感じたな。そういう発言は止めた方がいいよ。野村さんは前から少し発言がきつい時がある」森は言った。


「すみません」野村は森に今まで注意を受けた事がなかった。急に発言の注意を受けたので少し驚いた。


「アリバイがない件だが、岡本はその日職場で残業していたと聞いた。今回はその確認も兼ねてだ」森は言った。


「でも、監視カメラもないし退勤カードもない職場だから残業をしていた確認が出来なかったって、確認が取れたじゃないですか」野村は言った。


「岡本はその日の前日同僚に急に資料作成を頼まれて仕方なく残業をしたと聞いた。もし残業をしていたなら残業時間に書類を作成していたという、ファイルの作成時間の履歴が見られるはずだ。今日はそれを再度確認しに行く」森は言った。


「その資料ですが、十六時半が最終更新だったって履歴が確認出来たじゃないですか。これ以上確認をしても何も変わらないと思いますよ。岡本はもしかしたら冤罪かもしれないと森さんは思っているんですか?」野村はずっと考えていた事を聞いた。


「冤罪かは分からない。証拠が今のところ揃っているからな。ただ岡本を見ていると、嘘を付いているように見えなかったんだ」森は低い声で言った。


 野村は岡本の勤務していたパソコン教室の入っているビルの近くの駐車場に公用車を停める際に森を見たが、森は再度口元に手を当て何か考え込んでいる様子だった。






「こんばんは」


 先に立ってビルの中に入った森がパソコン教室のガラス張りのドアを開け中に入り、パソコン教室の受付内に居る若い女性と、このパソコン教室のオーナーの年配の女性に声を掛けた。この時間帯受付前には他に誰も居なかった。人の少ない時間帯を狙って来ていたので承知だったが。


 受付の若い女性以外は今ここに居る全員がマスクを着用していて、表情を読み取る事が出来ない。流行りの感染症対策のためで仕方がなかったが、捜査をする上で相手の表情が読み取れない事は業務に支障があった。


 森は着ていたスーツの胸ポケットから身分証を出して受付の二人に見せ、小声で自己紹介をした。


「昼間連絡をしました、道警の者です」


 野村も森に従い、身分証を二人に向けて見せた。


 このパソコン教室は古いビルの建物の中に入っている。ビルの廊下は寒かったが、パソコン教室の中は暖かかった。


「昼間お伝えした通り、岡本さんの普段使用していたパソコンを再度拝見させていただきたいのですが」森はオーナーの女性に向けて言った。


「わかりました。こちらです」オーナーの女性が手で受付内に案内をしてくれた。


 森と野村は受付内の奥に広がっている小さな事務スペースに案内された。そこにはデスクが向かい合うように四台置いてあり、デスクの上にはノートパソコンが何台か置いてある。デスクの上はノートパソコンの間を埋めるように書類や教科書が乱雑に置いてある。


「これが岡本さんの普段よく使用していたパソコンです。端に避けていてすみません。このパソコンですが他の者も共有で使用していたので、以前にもお伝えしましたが、うちは個人専用のパソコンはないんです」オーナーの女性は言った。


「ありがとうございます。再度確認させていただきます」森はそう言うと手にゴム手袋を嵌め、チェアに座り岡本の普段使用していたノートパソコンを開いて電源を押した。オーナーの女性は受付に戻って行った。


 野村は立ったまま受付外に視線をやった。丁度授業が終わったようで、廊下の奥の教室から生徒が数人出てきた。生徒達もマスクを着用していたりしていなかったりと様々だ。マスクは今なかなか手に入らないので全員が着用出来なくても仕方がないが。生徒達は受付で受付の女性と話し、何やら手続きをしていた。


 その時野村は、廊下の奥から歩いてやって来た人物に目が釘付けになった。その男は教科書とノートパソコンを片手に持ち、生徒の一人と親気に話しながら歩いて来た。マスクを顎に掛けていたので顔が良く見えた。見覚えのある顔だった。その顔を野村は過去に何度も取調室で見た。高倉だ。


 高倉は、半年前に起きた被害者遺族との揉め事の際に冤罪を着せられそうになり、揉めた被害者遺族の一人にナイフで刺されて病院に運ばれていた。その後に病室で聞き取り調査をしたのが、高倉を見た最後だった。


「森さん」野村はノートパソコンを確認している森に声を掛けた。


「何?」森は仕事を邪魔されて不機嫌そうな声を出した。


「あの男高倉では?」野村は森に高倉の方を指差した。高倉は丁度受付内に入ってきて、こちらの事務スペースに向かって歩いて来ようとした。森と野村が居る事に気付くと、一瞬表情が固まり事務スペースの手前で足を止めた。


 野村が森を見ると、森は高倉の方を見たまま心底驚いた目をして固まった。一瞬気分が悪そうにも見えたが、すぐにノートパソコンから手を離すとチェアごと高倉の方に体を向けた。


「ここで働いているのか」森は高倉に声を掛けた。


 高倉は後ろに居る受付の女性とオーナーの方を一度振り向いて見た。女性は二人ともこちらを見ていたが、高倉が振り向くと視線を外した。


「ええ、お久しぶりですね」高倉は森と野村を見て気まずそうに挨拶をしてきた。声は強張っているが表情は穏やかさを保とうとしたのか、作り笑顔をこちらに向けてきた。


「在宅の仕事は辞めたのか?」森は高倉に聞いた。


「いえ、このパソコン教室は掛け持ちでして」高倉はそう言うと、岡本のノートパソコンの置かれているデスクの目の前の空いていたデスクの上に、持っていたノートパソコンと教科書を置いた。デスクのチェアに座ると、マスクで口元を隠した。


「野村さん、このノートパソコンの確認、続きお願いしてもいいかな」森は野村に聞いてきた。


「え、はい。分かりました」野村は森に急に声を掛けられ驚いたが、返答した。


「高倉、ちょっと今話せるか」森は高倉に聞いた。


 野村は高倉を見た。高倉は驚いた目をしたが、自分の腕に嵌めていた腕時計を見た。


「次の授業があるので、十分程しかお時間割けませんが大丈夫ですか」高倉は森を見て言った。


「ああ、大丈夫だ。外の廊下で少し、話したい」森がそう言い席を立つと、高倉も席を立った。高倉は森と共にパソコン教室の入り口からビルの廊下に出て行った。


 野村はチェアに座り、ノートパソコンで岡本の最近作成していたエクセルやワードの資料を見た。


 森は高倉を見てから余計情緒不安定になったように見えた。それも無理はない。森の奥さんは高倉の弟の事件の被害者遺族が起こした事件に巻き込まれ、死亡していた。


 野村は資料の作成時間を確認しながら思考した。高倉も岡本と同じ同性愛者という事は知っていた。高倉が同性の恋人と同居している事も事情聴取で聞いて知っていた。札幌がいくら東京などと比較して小さな地方都市だからと言っても、それなりに大きな街だ。執行猶予期間中の高倉と岡本が同じ職場で働いている。そしてその岡本が捕まった。こんな偶然はあるだろうか。


 野村がノートパソコンの資料を確認し終えると、丁度森と高倉がパソコン教室内に戻ってきた。


「ちょっといいかな」森は野村にそう言うと、野村の調べ終えた岡本のノートパソコンを指差して言った。


「どうぞ。確認終わりました」野村は言った。


 森は立ったままノートパソコンを触ると、ある資料の入ったフォルダを開いて高倉の方にノートパソコンの画面を向けた。森はパソコンの画面を指差した。


「この資料だ。この資料を急遽作成して欲しいと伝えたのは、お前で間違いないか」森は高倉に聞いた。


 野村は驚いて高倉の方を見た。高倉は掛けていた眼鏡を右手で上げてノートパソコンに顔を近付け、ノートパソコンの画面を見た。


「はい。そうです。確か事件の前日にお願いしました。私も同じような資料の作成をオーナーから頼まれていて、岡本さんには納期を伝えるのをギリギリまで忘れてしまっていて。だから残業したのかと」高倉は言った。


「だから事件当日岡本は残業していたはずだと、お前は言いたいんだな?」森は高倉に聞いた。


「本当に残業をしていたかどうかは分かりませんが、この資料がそんな短時間で作成出来るとは思えないのです。岡本さんは普段あまり残業をしない人のようでしたが。でも資料作成なら、最終更新時間を確認したら残業をしていたか分かるんじゃないですか」高倉は聞いてきた。


 その確認が出来なかったから岡本はアリバイがなく今留置所に居る。野村はそんな事は高倉には言えなかった。

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