第十七章 3月17日

「お疲れ様です。お先に失礼します」花見は職場を退勤する際、周囲に座っていた同僚に声を掛けた。


 花見の職場はワンフロア借りた広いオフィスに様々な部署が入っており、部署ごとに出勤時間と退勤時間が異なる。花見は十七時退勤だが、隣の席に座っているウェブ運用チームの人間は時間差出勤で十八時退勤なので、まだ仕事をしていた。


 花見はこの職場に不満があった。元々隣のウェブ運用チームに配属されたく求人に応募をしたのだが、高校卒業後から今まで事務職しか経験のなかった花見はスキル不足と言われ、簡単な画像加工の仕事を淡々と行うだけの部署に配属されていた。パソコン教室に通い出した理由は、部署移動を希望してスキルアップの為だった。


 ただ通っているパソコン教室の予約はしばらくキャンセルしていた。パソコン教室の講師の岡本とあんな事が起きたからだ。


 花見は居酒屋で酔い潰れ、翌日ホテルで目を覚ますまでの間の記憶が何もなかった。だが今まで記憶を無くす程飲んだ事がなかったので、朝目覚めた時に自分が裸でホテルに居る事に驚いた。


 岡本は同性愛者だそうだ。あの朝、誤解を解くためなのか花見に必死に告白をしてきた。だがお互い裸の状態で朝を迎えた事で、岡本が同性愛者であるとはとても思えなかった。


 花見は自身にも非があると考え、この事は誰にも言えずにいた。あの後体中が痛くなるくらいに洗っていた。片思いをしていた講師の高倉には、とてもじゃないが顔向けが出来なかった。


 花見は地下鉄に乗り自宅の最寄り駅で降りると、しばらく歩き人気のない公園の横を通った。この道はいつも暗く不安になるので速足で歩いた。車の通りも少なく、街灯も薄暗く頼りない。


 花見は公園の角を曲がろうとした瞬間、目の前から角を曲がって来た人間とぶつかった。最近落ち込んで俯いて歩いていたせいだ。ぶつかった衝撃で肩に掛けていたトートバッグが肩からずり落ちた。


「あ、すみません」花見はぶつかった人間を見上げて謝った。だがその人間は立ち止まったまま謝りもせずに一言も発しなかった。背が高くマスクで顔を隠しており、キャップにパーカーのフードを被っていた。花見には暗闇の中その人間の顔が見えなかった。


 花見は不審に思いトートバッグを肩に掛け直して帰ろうと思ったが、その人間の横を通った際に後ろから急に口元を手で抑えられ、体を無理矢理公園の方に連れて行かれた。


 花見は一瞬何が起きたのか理解が出来なかった。慌てて抵抗をしようとしたが、後ろに居る人間が怖くて咄嗟に大声を出す事が出来なかった。口元を抑えられた手の隙間からくぐもった小さな声だけが出た。


 その人間は声を一切発しなかったが、体格と力から男だと思った。


 小柄な花見はその男に簡単に持ち運ばれ、公園の入り口から公園内に連れて行かれた。


 花見は体が強張り上手く抵抗が出来なかった。恐怖心に支配された。花見を連れ去る人間の力は強かった。花見はそのまま公園内にある土と芝生の盛り上がった急斜面になった遊び場の後ろの、横の道路から少し下に面している部分の芝生の上に押し倒された。そこは丁度公園外からは地面の高低差と、木々で視界が遮られている。男は花見の腕に掛かっていたトートバッグを奪うと地面に落とした。男は花見の上に馬乗りになった。


「やっ…」花見は男が自分の口元から一瞬手を離した瞬間に声を出し暴れて逃げようとしたが、突如頬に痛みを感じ言葉を失った。


 男に平手打ちをされたのだ。その力は強く花見は唖然とし、自分の唇が切れた痛みに気が付いたのはしばらくしてからだった。花見はまた口元を片手で塞がれた。


 花見は自分の着ていたコートの前のボタンを無理矢理外され、中に着ていたオフィスカジュアルなブラウスを勢いのある力で無理矢理開けられた。ブラウスの前のボタンが外れたようだ。服を破かれたのだと悟った。男はそのままブラウスの中に着ていたキャミソールを思い切り上に上げ、花見の下着を寒空の下に晒した。


 花見は男に殴られた事で、抵抗をしたら殺されるかもしれないという恐怖と戦っていた。このまま大人しく犯された方が身の為になるのではないか。下手に刺激をして抵抗をしない方が良いのではないか。男は凶器を持っているのだろうか。持っていなければ上手く抵抗して逃げられないだろうか。


 花見が必死に思考している間に、男は花見が履いていたプリーツの長いスカートを上に上げた。中に履いていたタイツを思い切り破られ、下半身の下着が露になった。


 花見はそこでやっと、これから訪れる本当の恐怖から逃げようと自分の足を動かし男の股間を蹴ろうと動いたが、男は身を反らすとまた花見の顔を強く平手打ちしてきた。花見は一瞬平手打ちの強さで脳震盪を起こしたのかと思った。目の前が霞んで見えた。恐怖で唖然としてしまい、何も出来なくなった。口の中が血の味がする。花見は涙が出た。


 男は花見の上半身の下着に手を掛け下着を上に上げると、花見の乳房を晒した。だが男は露になった花見の胸を触る事もせずに今度は花見の下半身の下着に手を伸ばした。花見は今や泣きじゃくり鼻水が詰まり、口で呼吸をしていた。花見は荒い息だが花見に乱暴を振るっている男は冷静なのか、息遣いさえ聞こえない。


 男は花見の下半身の下着を脱がしたが、太ももまで下着を落としたところで手を止めた。男は周囲を見渡した。花見の事を一瞬見下ろすと、男は立ち上がった。そして突如走って逃げて行った。


 花見は愕然としたが、声を出したら男がまた戻って来るかもしれないと思い、助けが呼べなかった。男は既に公園の外に行き、建物の角を曲がって見えなくなった。


 花見はしばらく泣き啜りその場から動けないでいたが、やっと状況が飲み込めると自分の下着を震えた手で着直し、破られた服を何とか着込み自分の裸を隠した。男が途中で逃げたので誰か目撃者が居たのかと思い周囲を見渡したが、暗い公園の中は誰も居なかった。公園の横にある歩道も見上げたが誰も居なかった。


 花見が地面に落ちたトートバッグに震える手を伸ばした際、トートバッグの側に何かが光って見えた。それは黒いペンだった。ペンのシルバー部分が月明りに反射していた。このペンは男が落としたものだろうか。花見は震える手を必死に抑えながら、ペンに手を伸ばした。






「久美子、どうしよう。私、男に乱暴された。されかけた」花見は自宅のマンションに入ると玄関先でドアの前の床に座り、震えながら親友の久美子にスマートフォンで電話をしていた。自宅に帰宅した途端足が震え出し急に立てなくなり、玄関の前で電話をしたのだった。


「どういう事。何処で。今一人?何処に居るの?」久美子は矢継ぎ早に質問をしてきた。


「今…い、家。帰ってきた。一人。最後まではされなかった」花見はまた涙が出て来た事に気が付いた。頬を流れる涙を手で拭うと、着ていたブラウスの袖に血が付いている事に気付いた。自分の唇を触った。血が出ていた。


「警察に通報はした?家から出ちゃだめだよ。危ないから、警察呼びな。今から私も行くから」実家から出てしばらく会っていない両親にはこんな事は相談出来ず、唯一相談出来た親友の久美子の声が頼もしかった。


「うん」花見は泣きながら言った。


「とりあえず鍵閉めてちゃんと家に居るんだよ。待ってて」


 花見は久美子との通話を切った後、また涙が止まらなくなった自分に気付いたが、横に置いたトートバッグに手を伸ばした。中から先程公園で拾ったペンを取り出した。よく見るとアルファベットのような文字が書いてあった。花見はペンを目元に近付け見た。


 ”Kenji.O”とネームが入っていた。花見は一瞬誰の名前か分からなかったが、しばらくすると脳裏に染み付いた男の匂いを思い出していた。


「岡本さんって良い匂いがするよね」パソコン教室の講師の高倉が個人クラスの授業中に、他のクラスの講師の岡本の話題をした際に苦笑いをしながら発した言葉を思い出した。


 あれ以来岡本が講師の個人クラスの授業中に、岡本のきついフローラルの香りが気になるようになってしまった。あれは岡本のシャンプーの匂いだろうか、それとも柔軟剤か、香水か。


 その匂いは先程の男から漂った匂いと一致した。あの匂いは岡本の匂いだ。


 花見は片手に持ったペンのネームを見た。岡本の下の名前は確か“けんじ”ではなかったか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る